佐賀県杵島郡江北町(龍澤寺ほか)・白石町(北東部・南端部)(2019-02-16)・・・佐賀県杵島郡江北町・白石町 

概要

  • 本堂・庫裡の甍(左手は桜) 2019-04-07
    本堂・庫裡の甍(左手は桜) 2019-04-07
    龍澤寺[曹洞宗]杵島郡江北町山口5162

02月16日(2019年)に、佐賀県杵島郡の江北町・白石町に行ってきました。江北町は龍澤寺など、白石町は町北東部・南端部のお寺廻りです。両町とも初めてではなく、今回はこれまで未訪問の寺院を廻ってきました。これで、江北町・白石町の寺院はほぼ一とおり廻り終えたと思います。

緒戦はJR肥前山口駅を起点とし徒歩での寺院廻りで、以降は車で廻りました。この地域にいる縁者に車で各寺へ連れて行ってもらったものです。

それぞれのお寺のページに当日伊藤氏が訪問したときの伊藤氏メモを掲載しています。 こちらもお見逃しなく。(作者)

地図はこちら

順路 参拝(登録済):22ケ寺、概算移動距離>43km

JR博多(07時29分始発特急) → JR肥前山口(8時24分着) → 【以下、徒歩にて】 → 泰松寺(江北町惣領分) tooltip → 西林寺(惣領分) tooltip → 佐留志小学校跡の石碑(惣領分) (*1) → 福正寺(惣領分) tooltip → 宗光寺・再(惣領分) tooltip → 東照寺・再(山口) tooltip → JR肥前山口駅(10時40分) → 【以下、車にて】 → 浄徳寺(江北町山口) tooltip → 梅東寺・再(山口) tooltip → 善福寺(山口) tooltip → 龍澤寺(山口) tooltip → 永林寺(上小田) tooltip → 禅定寺(上小田 tooltip → [長崎街道小田宿の正栄寺・一行寺・馬頭観音堂前を通過] → 佐賀ラーメン喰道楽大町店(大町町大町/12時45分~昼食) (*2) → 次郎大明神祠(江北町下小田) (*3) → 正昭寺(下小田) tooltip → 成就院(白石町福田) tooltip → 圓通寺(福吉) tooltip → 萬福寺(福富) tooltip → 大弘寺(福富) tooltip → 光照寺(福富) tooltip → 大福寺(福富下分) tooltip → 寶海寺(福富下分) tooltip → 天龍寺跡(深浦) tooltip → 光明院(深浦) tooltip → 深浦西分観音堂(深浦/17時10分) tooltip → JR肥前山口駅(特急) → JR博多 → 帰途


補足

  1. 佐留志小学校跡の石碑 (杵島郡江北町惣領分)

    道路沿いの一画に佐留志小学校跡と刻字された大きな石碑が立っている。以下は、碑文の要旨である。

    国家教育の方針に基づき、佐留志・惣領分の児童を教育する場として、明治8年1875堤雄神社に啓暗小学校という名称で仮設されたのが始まりである。

    明治11年1878ここ五本松に二階建校舎を新築。明治26年1893佐留志尋常小学校と校名を改め、形式・内容共に整い教育の実績をあげた。

    昭和7年1932小田・山口・佐留志の3村合併により、江北尋常小学校に統合するまで58星霜、様々な困難を乗り越えてきた。その間、本校に学んだ児童は2308名の多きに及び、幾多の著名な政治家・実業家・軍人・教育者などを輩出した。

  2. 佐賀ラーメン喰道楽大町店 (杵島郡大町町大町898-2、0952-82-5720)

    武雄市北方町に本店を置き、佐賀県一円にチェーン店を展開、ネット販売も行っている佐賀ラーメン喰道楽の大町店で昼食をとりました。

    交通量の多い国道34号線沿いにドライブインのような形で店舗棟を構えており、駐車スペースも十分です。店内に入ると、多くの芸能人・有名人のサイン色紙が目につきます。

    佐賀ラーメン・小チャーハン・餃子(5個)の1000円セットをいただきました。チャーハンは小となっていますが、中と大の間のような量でおいしくいただきました。セルフ食べ放題のサラダもあり、満腹満腹でのお勘定となりました。

    当店の様子は、ブログ「ああ、それにしても野菜が食べたい 佐賀ラーメン喰道楽 大町店 - 佐賀移住日記」でご覧になれます。

  3. 次郎大明神祠 (杵島郡江北町下小田)

    正昭寺の東側、大西公民館道南向かいの小水路上の一区画に石祠や石碑などがあり、「伝承 次郎さん由来記」と題された案内板が立っている。その案内板には、以下のように記載されている。

    昔、この地で戦いに敗れ重傷を負った武将を、信心厚き部落の者が相談して密かに助けて介抱することになり、地形的に他村に知られにくい中井樋の農家に囲い面倒をみた。

    しかし、看病のかいもなく傷は悪化し、この武将は衰弱していく身に余命を悟り、ある夜、この農家の主を呼び「自分は余命いくばくもないと思う。死ぬる生命をながらえて、武士としてこれ以上この世に生き恥ををさらすより、世のため人のためになることに身を捧げてこの地で果てたい覚悟である。この地の者の望みに報いる守護神になって礼をしたい。望む守護神を申してくれ。姓は名乗れないが名は次郎と申す。」と心を打ち明けた。主は村の者と相談し、衆議一決で風邪の守護神を願った。風邪で死ぬ者が一番多かったからである。

    武将は、ある夜、家人に知られぬようにして、鎧・兜を身に付けて入水死没した。翌朝、家人がこれを見つけた。村人は手厚く回向して葬り、遺志どおり、その没した川の上に小さな祠を造り自然石の碑を建てて風邪の神とし、次郎大明神と言って祀った。