甘木鉄道太刀洗(筑前町)~西鉄三沢(小郡市)(2016-01-10)・・・福岡県朝倉郡・小郡市 

概要

本日(2016年1月10日)は、甘木鉄道太刀洗駅(筑前町南部)から、西鉄三沢駅(小郡市北部)までの方面を廻ってきました。 本コースのお勧めポイントは、「大刀洗平和記念館」と「如意輪寺」です。特に、大刀洗平和記念館はぜひご覧あれです。

それぞれのお寺のページに当日伊藤氏が訪問したときの伊藤氏メモを掲載しています。 こちらもお見逃しなく。(作者)

地図はこちら

順路 参拝(登録済):8ケ寺、概算移動距離>16km

西鉄薬院(8時09分発急行) → 西鉄小郡(8時40分着)・甘木鉄道小郡(8時59分発) → 甘木鉄道太刀洗(9時12分着) (*1) → 大刀洗平和記念館(朝倉郡筑前町高田) (*2) → 太刀洗レトロステーション(高田) (*3) → 丸八(高田/昼飯/~11時50分) (*4) → 信覚寺(野町) tooltip → 妙蓮寺(下高場) tooltip → 夜須教会(下高場) (*5) → 浄満寺(下高場) tooltip → 頓了寺(小郡市乙隈) tooltip → 彼岸土居古戦場跡(乙隈) (*6) → 如意輪寺(横隈) tooltip → 明願寺(横隈) tooltip → 光明寺(三沢) tooltip → 三沢薬師堂(三沢) tooltip → 西鉄三沢(16時48分発)⇒西鉄薬院(17時37分着) → 帰途


補足

  1. 甘木鉄道太刀洗 (筑前町高田417-3)
    昭和14年(1939)国鉄甘木線が開通。戦前は様々な軍事物資の輸送に使われ、多くの大刀洗飛行場関係者もこの太刀洗駅を乗降した。1日の乗降客は2万人ともいわれていた。また、戦地へ向かう兵士と家族との別れの駅ともなった。(「大刀洗平和記念館パンフ」より))
  2. 大刀洗平和記念館 (朝倉郡筑前町高田2561-1、0946-23-1227)
    平和記念館からのメッセージを以下に記します(HPより)
    「かつてこの地には、旧陸軍が東洋一を誇った大刀洗飛行場を中心とする一大軍都が存在し、歴史的な役割を果たしながら大きく発展していきます。 しかし、昭和20年3月、米軍の大空襲により壊滅的な被害を受け、民間人を含む、多くの尊い命が失われました。 また、この飛行場は特攻隊の中継基地として、多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でもあります。 このような多くの尊い犠牲のうえに現在の平和と繁栄があることを深く感謝し、この筑前町立大刀洗平和記念館は「平和への情報発信基地」として、平和へのメッセージを発信し続けます。ぜひご来館いただき、心身で平和の大切さを感じとってください。」
    平成21年開館。旧日本陸軍九七式戦闘機、旧日本海軍零式艦上戦闘機をはじめ、大戦中の資料約1800点が展示され、大刀洗飛行場が存在した大正8年から昭和20年までの航空史とともに紹介されている。 また、故郷から遠く離れた戦地から愛する家族への想いを伝える手紙・遺書なども展示されている。
    ※「大刀洗平和記念館」と「太刀洗レトロステーション」との共通割引入館券あり。
  3. 太刀洗レトロステーション (朝倉郡筑前町高田417-3、0946-22-2686、甘木鉄道太刀洗駅舎内)
    昭和62年(1987)からの20有余年にわたる(旧)大刀洗平和記念館としての役目を追え「太刀洗レトロステーション」として生まれ変わった。建物は戦前の駅舎をそのまま利用している。 古きよき昭和時代の日常と非日常を同時に体感できるように、昭和史を語る貴重な品々の展示と合わせ、戦時中のまま保存された太刀洗駅舎の「線路地下道」の見学もできる。レトロステーション内のカフェでは蓄音機や真空管オーディオなども展示している。(「筑前町観光ガイド」パンフなどより)
    ※「大刀洗平和記念館」と「太刀洗レトロステーション」との共通割引入館券あり。
  4. 丸八 (朝倉郡筑前町高田2555-1、0946-21-1508、大刀洗平和記念館道北向かい・ローソン西側)
    久留米ラーメンの店。味よし。ラーメン+おでん2個+小飯のセットで800円。辛子高菜は無料サービス。入店は昼前の11時半頃でしたが、既に店内は半分近く埋まるほどの人気ぶりでした。
  5. 夜須教会 中山身語正宗夜須教会(朝倉郡筑前町下高場2568、浄満寺東側田久保橋東)□本HP記載なし□
    個人住宅と思しき敷地内に畳敷きの小宇があり、張られた紫色の幔幕には「開基50周年平成15年」の文字がありました。三界万霊供養塔もある。)
  6. 彼岸土居古戦場跡 (小郡市乙隈、頓了寺南西宝満川宝満橋東側)
    道路沿いにある説明板の内容を以下に記します。
    ・明治10年(1877)4月、明治新政府に不満の旧福岡藩士の一部150名は、轟警察署(鳥栖市)を襲ったが失敗し、秋月の党と合流するため秋月に向かう途中、旧御原郡乙隈村彼岸土居(この付近)で昼飯のため休んでいた。
    そのとき、松崎通りの往還(現、県道)を福岡から熊本に輸送する弾薬等を積んだ車、数十輌が通過するのを見つけ、これを奪おうとした。
    政府軍はそのことを予期して、近くまで来ていた久留米の一個中隊と巡査隊60名は、たまたま小倉から冷水峠を越え、木葉(熊本県)に向かっていた広島鎮台一個中隊に連絡した。広島鎮台兵は丸町村より西小田村、津古村に廻り、横隈村の井ノ浦溜池付近に陣をしいた。
    久留米から来た鎮台兵と巡査隊は、干潟村側の往還より夜須川(草葉川)の新井手の上に注いでいる三国用水(冬季には水がない)に陣をしき、残党めがけ発砲した。
    残党は蜘蛛の子を散らすように逃げ、主力は横隈村隼鷹神社の北方八竜付近に逃げて、井ノ浦溜池付近の広島鎮台兵との挟み撃ちに遭い、その場にたちまち30余名が戦死したという。ここの戦いで、その外、遁走時に討ち取られた者5名、捕縛10名余、自首7名、残りの者は秋月の方へ遁走したといわれている。