うきは市吉井町(旧:浮羽郡吉井町)(2015-12-19)・・・福岡県うきは市 

概要

うきは市吉井町に行ってきました。白壁と清流の町だけあって、お寺めぐりのみならず、観光も十分楽しめることができました。福岡市内からは遠隔地ですが、歩行距離的な負担も少なく、いいコースでのいいお寺めぐりができました。

それぞれのお寺のページに当日伊藤氏が訪問したときの伊藤氏メモを掲載しています。 こちらもお見逃しなく。(作者)

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順路 参拝(登録済):11ケ寺、概算移動距離>10km

JR博多(7時45分発・特急ゆふ1号) → JR筑後吉井(8時46分着) → 西厳寺(うきは市吉井町) tooltip → 隆法寺(吉井町新治) tooltip → 浮羽青果地方卸売市場前(吉井町新治) → 宝琳寺(吉井町) tooltip → 観光会館土蔵(吉井町) (*1) → 白壁通り(吉井町) (*2) → 菊竹六鼓記念館(吉井町) (*3) → 素盞鳴神社・東光寺跡(吉井町) tooltip → 光琳寺(吉井町) tooltip → 鏡田屋敷(吉井町) (*4) → 清光寺(吉井町若宮) tooltip → 蔵しっくり通り(吉井町) (*5) → 浄満寺(吉井町) tooltip → 町並み交流会館商家(吉井町/11時30分~昼飯) (*6) → 円応寺(吉井町) tooltip → 延寿寺曽根のはぜ並木(吉井町福益) (*7) → 星野家供養塔跡(吉井町福益) (*8) → 妙福寺(吉井町福益) tooltip → 延寿寺(吉井町福益) (*9) → 満願寺(吉井町屋部) tooltip → 本佛寺(浮羽町流川/14時) tooltip → JR筑後吉井(14時50分駅到着/15時00分発) → JR久留米乗換え(15時38分着・15時49分発快速) → JR博多(16時23分着) → 帰途


補足

  1. 観光会館土蔵 (吉井町1043-2、0943-76-3980、うきは市文化会館敷地南側)
    無料休憩所及び地場産品の展示販売や郷土料理を味わうことができる。白壁土蔵造りの町並みを保存するため、老朽化していた旧酒蔵を改修し、観光会館とした。観光MAPを配布しており、常時職員が案内の対応をしている。また、サイクリング用自転車も用意している。月曜休館(祝日の場合は翌日)。(「福岡県観光情報クロスロードふくおか」より)
  2. 白壁通
    現在この通りは国道210号線(筑後街道)に通じる県道甘木・吉井線として利用されている。道路拡張で、西側には古い建物は少ないが、東側には海鼠壁(なまこかべ)で白壁土蔵造りの重厚な町並みが残っている。この白壁通りでは、おひなさま巡り小さな美術館巡り吉井祇園祭り若宮おくんちしらかべ楽市楽座など一年を通して、多くの祭りやイベントの場所として賑わいを見せている。(「観光案内表示板」より)
  3. 菊竹六鼓記念館 (吉井町1082-1、0943-75-3343うきは市教育委員会生涯学習課、素盞鳴神社西隣)
    菊竹六鼓は、「福岡日日新聞」(「西日本新聞」の前身)にて、5・15事件における少数軍人暴虐に対し痛烈な軍部批判を行った吉井町出身のジャーナリスト。菊竹六鼓記念館は、氏の功績をたたえ、主筆菊竹六皷の遺品及び記録を後世に伝える記念館で、展示室のほか和室やホールがある。(「Ukiha Kankou WEB」より)
    参考:軍の横暴を痛烈に批判しペンの自由を守った「菊竹六皷」 | ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう | 地域社会貢献活動 | 西日本シティ銀行について | 西日本シティ銀行
  4. 鏡田屋敷(かがみだやしき) (吉井町若宮113-1、0943-75-3113うきは市教育委員会生涯学習課、光琳寺道東)
    町に残る唯一の屋敷型建造物で、幕末から明治初期に郡役所として建てられた。座敷と2階の増築は明治26年頃と思われる。当初郡役所の官舎として建てられたといわれ、明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住した。平成9年度建設省街なみ環境整備事業により修理復元工事を行った。うきは市指定文化財。見学無料。バリアフリー、盲導犬同伴可。(「福岡県観光情報クロスロードふくおか」より)
  5. 蔵しっくり通り
    この街道(国道210号線)には筑後軌道が走り、大正3年1914には蒸気機関車になった。その後、昭和3年1928に国鉄久大本線が開通するとレールが取り除かれ25年間の幕を閉じることとなった。明治15年設立された吉井銀行は、道路正面に向いて建っていた。「吉井銀[よしいがね]」の金融活動を続けて冨を増やしていた吉井商人は新しい時代の流れに沿って、近代的銀行業への転換を図った。吉井銀行は現在の福岡銀行吉井支店の前身となった。(「観光案内表示板」より)
    明治36年1903、郡内の有志が集い、まず田主丸~吉井間に馬車鉄道を走らせ、その後石油発動機(焼玉エンジン)から、筑後軌道鉄道の石炭小型蒸気機関車となり、大正5年1916、久留米~日田間に全線が開通(上り・下りとも日に27便)。また、二日市~朝倉恵蘇宿間・甘木~田主丸間にも、軌道車が走り、田主丸で筑後軌道鉄道と連結し、旅客・貨物の交通機関として大活躍した。しかし、昭和3年1928、時代の要請で国鉄久大線が開通し、明治・大正・昭和の3代、25年間のお役目を終了した。(「観光案内表示板:吉井町に軌道車が走る」より)
  6. 町並み交流会館商家 (吉井町1153-1、0943-75-2572、浄満寺西)
    乾物魚類問屋として筑後一円に知られ、元禄3年1690以来300年以上も続いた旧家で乾物問屋の老舗「松源商店」の建物を利用した「町並み交流館商家」は、平成15年度に旧吉井町が購入し、平成16年度より公開施設としたもの。見学のほか、喫茶や地元の食材を使った食事もできる施設である。月曜休(祝日の場合は、その翌日)。
    「松源商店」:松源商店の初代は、中世の豪族・問註所氏(筑後長岩城・うきは市浮羽町)の末裔といわれる田籠嘉六という人で、宝暦11年1761に吉井町に移住してきた。もともと「松屋」の屋号がついていたが、第4代が田籠源右衛門を名乗っていたことから通称「松源」の名で親しまれるようになった。
    町並み交流館商家は、昭和3年、第8代・田籠友次郎のときに建てられた大型町家である。もともとこの建物の外壁は黒色の漆喰となっていた。当主が「商売人は派手にしてはいけない。」ということから黒くした説、有事に備えて上空の戦闘機から目立たないように黒くした説がある。(「Ukiha Kankou WEB」より)
  7. 延寿寺曽根のはぜ並木 (吉井町福益、JR久大本線踏切から南へ、福冨小学校あたりまで)
    耳納山麓から幾筋もの曽根(坂のある長い堤防道)が北へ伸びる。これらの川沿いに数多くのはぜが植えられ、このはぜの実から木蝋の生産が江戸中期から昭和の初期ごろまで行われていた。 吉井ははぜの国であった筑後の名声を担い、その中心地であった。はぜや木蝋生産等で蓄積された富は吉井銀となり白壁土蔵を形成することになる。現在ははぜに生産上の利益がなくなり、伐採されて延寿寺曽根のはぜ並木がかろうじて残っている。
    この延寿寺曽根のはぜ並木は春の若葉の頃もよいが、深秋の紅葉の鮮やかさはすばらしいものである。紅葉時期は、11月下旬~12月中旬。はぜ並木が色づくころライトアップされ、赤く色づいた葉を鮮やかに浮かび上がらせる。はぜ並木は延寿寺川沿いの800メートルほどに約130本が連なる。ライトアップは地元の地域おこし団体が、一帯が櫨(ろう)の産地だった昔に思いをはせてもらおうと始め、今年で8年目。2015年のライトアップは11月14日~12月6日に実施された。(「うきは市ホームページ」などより)
    ここを通ったのは12月中旬の19日でしたが、まだまだかなりはぜ並木の紅葉が見られました。川沿いのいい散策となりました。
  8. 星野家供養塔跡 (吉井町福益、福冨小学校すぐ南)
    星野氏は平安時代の末頃、時の帝から調(しらべ)という姓を賜るほどの笛の上手な黒木助能(すけよし)がいて、その子胤実(たねざね)を祖とし、まず星野に拠ったが、やがて耳納山の北面に城塞を築き、四方に武威を張った。のちに元寇の迎撃や、建武期南朝方の皇子を助けるなど、活躍し名をあげた。しかし、戦国時代に入ると歴代歴戦の将士は興隆衰退を繰り返しながら領域を守ったが、豊臣秀吉の九州の島津征伐の折、その島津氏に加担して奮戦の結果、ついにその宗家は滅亡した。
    この延寿寺はその星野氏の城下町であり、この場所には「16歳の初陣で戦死した愛児の母親がその子の冥福を祈るため、石塔を建てたもので、在郷往来の心ある方々は、後世菩提の念仏を唱えてその後生を祈ってほしい」という悲嘆にくれる母親が刻んだ約500年前の宝篋印塔が建てられていた。その塔の銘文は吉井歴史民俗資料館に展示されている。(供養塔跡敷地内小宇脇の解説板より)
  9. 延寿寺 (延寿寺交差点東南)):○本HP記載なし○
    地図上、延寿寺の表記(卍マーク)があり、行ってみました。寺院というよりも、狭い境内の小さな堂宇で、「生葉郡中33観音17番延寿寺」の木札が掛かっていました。