神代勝利ゆかりの寺社
神代勝利ゆかりの寺社のリストです。
舞台は主に佐賀県。時代は戦国時代。
永正8年(1511)、神代家元の次男として誕生。
享禄年間(1528-1531)、三瀬山一帯を治めていた三瀬宗利にその剛勇を見出され、山内20ケ山(三瀬村・富士町・大和町など佐賀市の北部・背振)の総大将として三瀬城に入り、その統一を実現。
その後、三瀬城を中核として、山内各地に支城を築いて支配を確立するとともに、龍造寺隆信(1529-1584)と激戦を度々繰り広げた。 永禄7年(1564)居城を畑瀬山に築き、家督を長男永良(27歳)に譲る。 翌年、畑瀬城で永眠した。享年54歳。
参考:神代勝利関連年表。
種 | 寺号 | ふりがな | 所在地 | 宗派 | お勧め | 概要 | キーワード |
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拝
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観音寺跡
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かんのんじあと | 佐賀県佐賀市 | 曹洞宗 | [神代勝利][背振千坊] | ||
神
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勝玉神社
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かつたまじんじゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | ☆☆☆ | 旧領主神代勝利を祭神として祀り、勝玉大明神と号したのが、この神社の起源である。 | [神代勝利][三瀬街道] |
拝
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脚気地蔵
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かっけじぞう | 佐賀県佐賀市 | 仏教礼拝所 | ☆☆☆ | 勝利は出陣前には必ず祈願をこめていた。 | [神代勝利] |
神
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山王社
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さんのうしゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | ★☆☆ | 神代勝利嫡男・長良の病気平癒の結願により創建された。 | [神代勝利] |
寺
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円光寺
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えんこうじ | 佐賀県佐賀市 | 浄土真宗本願寺派 | ☆☆☆ | 永禄年中(1558-1570)神代勝利はこの寺に寓した。 | [神代勝利][背振千坊] |
神
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玉里神社
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たまりじんじゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | ☆☆☆ | 祭神に神代勝利が列せられている。 | [イチョウ][キンモクセイ][神代勝利] |
神
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勝宿神社
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かしゅくじんじゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | 神代勝利を祀り、江戸末期に長崎から棟梁を招いて建立されたと伝えられている。 | [神代勝利] | |
寺
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松陰寺
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しょういんじ | 佐賀県佐賀市 | 曹洞宗 | ☆☆☆ | [即非如一][神代家累代の御霊屋] | |
寺
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宗源院
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そうげんいん | 佐賀県佐賀市 | 曹洞宗 | ☆☆☆ | 宗源院の旧地は勝利の墓所 | [神代勝利] |
拝
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向合い観音
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むきあいかんのん | 佐賀県佐賀市 | 仏教礼拝所 | ☆☆☆ | 永禄5年(1563)、神代勝利が謀反をおこした三養基郡綾部城主(綾部氏)を討ち取った場所。 | [神代勝利][三瀬街道] |
寺
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西淨寺
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さいじょうじ | 佐賀県佐賀市 | 浄土真宗本願寺派 | ☆☆☆ | 神代勝利・長良父子は、筑前・筑後連合軍の来攻を受け退却したが、富士町上無津呂でおびただしい戦死者を出した。信海は、戦没者を一か所に集めて合同葬を営んだ。神代氏は、戦没者菩提のため毎年13石を給付し法要を営んだ。 | [神代勝利] |
神
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上無津呂淀姫神社
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かみむつろよどひめじんじゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | ★☆☆ | 栄禄4年(1561)、龍造寺隆信との川上合戦で大敗した勝利は、追っ手を避けながら当社に救いを求めた。 宮司賀村大和守舎種は神代父子を社内に隠し、村民を集めて大祭のまねをし神楽を奏していた。 龍造寺の追ってが来て探索したが発見できず、難を逃れた。 | [砥川石工][神代勝利][肥前鳥居] |
寺
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万福寺
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まんぷくじ | 佐賀県佐賀市 | 臨済宗南禅寺派 | ★☆☆ | 神代長良の子千寿丸が手習いに通った寺 | [神代勝利] |
神
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住吉神社
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すみよしじんじゃ | 佐賀県佐賀市 | 神道 | 神代利元は弟新次郎(勝利)の高い能力を見抜き、神代家相続を譲ることを決意。利元の訴えに神代一門は住吉大明神に参詣し、占いによって、新次郎への相続が決定した。 | [神代勝利] | |
寺
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福田寺
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ふくでんじ | 佐賀県小城市 | 曹洞宗 | 神代家良(勝利の義孫にあたる)の菩提所 | [中林梧竹][伊藤氏参拝済][六地蔵塔][坐禅][神代家良] | |
寺
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戒宝寺
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かいほうじ | 福岡県糸島市 | 浄土真宗本願寺派 | ☆☆☆ | 勝利の孫、神代長吉が創建した。 | [伊藤氏参拝済][神代勝利] |
種 | 名前 | ふりがな | 所在地 | 宗派 | お勧め | 概要 | キーワード |
神代勝利関連年表
大部分を『神代勝利ゆかりの地ガイドブック』より引用しました。
西暦 | 和暦 | できごと |
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1511 | 永正8年 | 神代勝利誕生 |
1528〜 1531 | 享禄年間 | 三瀬の梅渓庵にて剣術修行。(梅渓庵とは梅谷山 円光寺(佐賀市三瀬村藤原)の前身のことと思われる) 三瀬宗利に乞われ山内26ケ山の総大将となる |
1537 | 天文6年 | 嫡男・長良誕生(勝利26歳のとき) |
1545 | 天文14年 | 龍造寺家兼攻め(勝利出陣) |
1546 | 天文15年 | 龍造寺家兼死去(93歳) 遺言で孫(周家)の子を還俗させ相続させる(のちの隆信) |
1550 | 天文19年 | 龍造寺本家を継ぎ、大内義隆より「隆」の字をもらう |
1551 | 天文20年 | 大内義隆、陶晴賢,により殺害される この機に少弐冬尚は龍造寺隆信を攻める(勝利出陣) 隆信は筑後に逃れる |
1553 | 天文22年 | 隆信、水ケ江城にもどる 八戸の八戸宗暘を降伏させ[8月]、蓮池の小田政光攻め[10月] その後、勢福寺城の江上武種を攻める[11月] 神代は江上を助け龍造寺と戦う その結果、神代・江上・龍造寺は和睦 |
1554 | 天文23年 | [10月]龍造寺隆信が少弐冬尚を攻める 和睦を理由に神代勝利に出陣協力依頼 |
1555 | 弘治元年 | [2月]饗膳の毒事件 龍造寺隆信が少弐冬尚を攻める(神代は少弐を助ける) [10月]龍造寺が三反田・小副川の谷口城攻め、勝利は敗れ筑前に逃れる |
1557 | 弘治3年 | [正月]山内の武士が熊ノ川代官を攻め、勝利は再び山内統治 [9月]神代勝利は龍造寺支配下の春日山城を攻める [10月]金敷峠の合戦、神代勝利は筑前の小田部紹連を攻める |
1561 | 栄禄4年 | [9月]神代勝利は川上合戦で敗れ、西肥前の波佐見に逃れる [12月]山内武士が山内麻那古の代官を襲い、勝利を迎え入れる |
1562 | 栄禄5年 | 龍造寺が鳥羽院城主西川伊予守を使い、勝利父子の殺害を計略するが失敗、その後、隆信は和睦を申し入れ(和睦成立) |
1564 | 栄禄7年 | 勝利(57歳)、居城を畑瀬山に築き、家督を長良(27歳)に譲る |
1565 | 栄禄8年 | [3月15日]畑瀬城で勝利永眠 [4月]長良の嫡子・千寿丸(11歳)と同妹姫(7歳)天然痘で死亡 龍造寺隆信、千布の城を攻める、長良は筑前に蟄居 [8月]長良、龍造寺の支配に対する旧民の一揆に乗じて山内に戻る |
1569 | 栄禄12年 | 南無堂具留里の合戦で神代長良は大友宗麟を助け、龍造寺と戦う 隆信は籠城困難ということで大友と和睦が成立 |
1570 | 元亀元年 | 今山の合戦で龍造寺勢が奇襲攻撃、大将大友親貞(宗麟の弟)を討ち、大友・神代勢は総崩れ[3月]、 大友・神代・龍造寺の和睦が成立[9月] |
1574 | 天正2年 | 隆信は長良に松浦の草野鎮永討伐の助力要請 長良、草野六山を領知する |
1576 | 天正4年 | 神代長良、宇奈貴礼の合戦で筑前の原田了栄と戦う |
1579 | 天正7年 | 鍋島直茂の猶子犬法師丸(7歳)を養子として迎える |
1581 | 天正7年 | 神代長良死去(44歳)、鍋島直茂が家良(犬法師丸)の後見役となる |
1584 | 天正12年 | 島原攻めで龍造寺隆信討死 |
1586 | 天正14年 | 神代家良。芦刈に領地替え |