龍川山
正法寺
浄土真宗本願寺派
☆☆☆
歴史
門前の案内板の内容をそのまま記す。
浄土真宗本願寺派 瀧川山正法寺 開山の由緒
須山権之佐正則は周防国の豪族で、 若くして大内義隆に仕え家臣として信頼も厚く、武芸にも猛ていた。 天文20年(1575)周防7ヶ国の守護であった義隆は、 少弐、大伴、尼子らと対戦し老陶晴賢の反逆に会い義隆主君と運命を共にしたいと迫るが、 義隆は正則に大内の事跡を後世に残すことこそ正則の使命であると諭し、 現今第11代、顕如上人が石山寺で織田信長との戦いで苦戦であったので、 顕如上人に加勢をする旨の書状をしたためる。 その書状を片手に義隆の家臣と共に、 石山本願寺に向かう。 本願寺に着くや義隆の書状を顕如上人に渡し、 顕如上人の直弟として仕え石山合戦に参戦するが、 天正8年(1580)正親天皇の仲裁により10年間に及んだ石山合戦は和議が成立し戦いは終わる。 石山本願寺は後に豊臣秀吉から京都堀川の地を寄進され、今日の西本願寺となる。
顕如上人の宗門一行は、京都に入り再建の道を辿る。 天正11年(1583)より、 顕如上人は本願寺の再興をする事になる。
この歳11月24日 顕如上人は50歳の生涯を終える。 父顕如が逝去し京都に身を潜めた正則一行は、 12代準如の情けにより、 石見の国津和野城主坂崎出羽守に正則一行を預ける旨の書状をしたためる。
其の書状を受け取り正則一行は水津、村上の姓を名乗る20数名の部下を引き連れて京都を離れ、 一路石見の国に入り、津和野城主 坂崎出羽守にお目通りの日を迎える。 坂崎出羽守の計らいにより津和野領須川の地に案内を受け暫く身を潜め、 其の後津和野領である高浪山に出向き道場の地載りを探索し現在地が道場に最適と定める。 山号は龍谷山本願寺の頭文字、龍を拝領し、龍川山正法寺と号する。 慶長13年(1608)道場の開基と共に、 浄土真宗を各地に広め、1200有余名の門信徒の厚い信仰に支えられ、歳月を経て幕末に至る。
慶応2年(1866)6月16日 岸静江が戦死したその夜、 長州軍大村益次郎が率いる1300有余名が、当寺に引き返し宿泊した。
昭和27年宗教法が改定される。 改定に伴い、出張所が廃止され、 門徒数は4分の1に減する。 現在は17世須山羚治住職により荘厳正法寺が護寺法灯されて今日を迎える。
平成24年1月16日 親鸞聖人750回大遠忌法要記念建立
ひとくちメモ
門前の国道488号線は中国山地を越え広島に至る道路である。 その先には匹見川の清流が流れている。 鐘楼の反りの入った柱が印象的である。