仏旗 清瀧山浄光院 萬福寺(まんぷくじ) [万福寺・益田道場] 時宗★★★  MANPUKUJI TEMPLE 雪舟庭園雪舟

  • 本堂と庫裡
    本堂と庫裡 
  • 雪舟庭園
    雪舟庭園 
住所・電話
〒698-0004 島根県益田市東町25-33 標高:13.3m MAP GMAP 0856-22-0302
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萬福寺 (益田市) - Wikipedia
萬福寺
万福寺|益田市観光協会 なつかしの国石見
なつかしの国石見 - 萬福寺

歴史

当寺のパンフレットの内容をそのまま引用する。

萬福寺縁起

時宗益田道場・清瀧山・浄光院萬福寺は、 平安時代に建立され、 安福寺(天台宗)と号し、益田川河口付近にありました。 万寿3年1026、大津波のために流失、その後、小庵を建てて法灯を守っていましたが、 元応9年1319に遊行4代呑海上人が当地に下向入寺された際、 時宗の道場となりました。

応安7年1374、益田七尾城11代城主・益田越中守兼見(かねはる)公が現在の地に移築して、 萬福寺と改称し、寺領31石を与えて益田家の菩提寺と定められました。

文明11年1479、15代城主・益田越中守兼堯(かねたか)公が画聖雪舟を益田に招き、堂後に石庭を造らせました。

また、慶応2年1866第2次長州征伐・益田口戦争の際、 当山は幕府軍の陣営となり、兵火のために総門は焼失しましたが、 幸い、本堂・庫裡はその類を及ぼすことなく、現在に至っています。

益田兼見の墓は昔は寺の境内にあったが昭和58年の豪雨災害復旧にあわせて寺から直線距離で100mほどの高台に移設されている。

ひとくちメモ

萬福寺は益田川のすぐ北側に伽藍を構えている。 朱色の山門をくぐると境内は広大な広場となっており、その先に本堂が建っている。 訪れた時は本堂前面の扉が全て開け放たれており、何とも言えない味わい深い建物の景色であった。 作者が今までに見た本堂の中で最上級のものである。

雪舟庭園は、本堂に向って右手の庫裡の玄関にある受付から入る。 本堂・庫裡の裏手は回廊となっており、庭園を鑑賞できるようになっている。 また、本堂内にも入り御本尊を拝むこともできる。 本堂内の柱には、第2次長州征伐の時の長州軍によって打ち込まれた弾丸の跡があることを確認できる。

雪舟庭園の受付時間(年中無休):夏季 8:30-17:30 冬季 8:30-17:00

写真

  • 本堂
    本堂 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 本堂
    本堂 
  • 山門(人物は案内して下さった佐々木様)
    山門(人物は案内して下さった佐々木様) 
  • 山門の扁額
    山門の扁額 
  • 山門(人物は案内して下さった佐々木様) - 境内から撮影
    山門(人物は案内して下さった佐々木様) - 境内から撮影 
  • 山門 - 境内から撮影
    山門 - 境内から撮影 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 寺南の益田川、対岸の建物は歴史民族資料館
    寺南の益田川、対岸の建物は歴史民族資料館 
  • 山門
    山門 
  • 門前の風景(右手が山門)
    門前の風景(右手が山門) 
  • 山門脇の六地蔵尊
    山門脇の六地蔵尊 
  • 参道 - 山門を背にして撮影
    参道 - 山門を背にして撮影 
  • 参道口の門柱(山門の西方50mの地点)
    参道口の門柱(山門の西方50mの地点) 
  • 益田川 - 上流に向って撮影
    益田川 - 上流に向って撮影 
  • 梵鐘
    梵鐘 

雪舟庭園の写真

  • 雪舟庭園
    雪舟庭園 
  • 雪舟庭園
    雪舟庭園 

益田兼見の墓

墓碑は左手に父兼方、右手に兼見の墓と並んで建てられている。 墓碑脇の案内板の内容をそのまま記載する。

益田兼見の墓益田市指定文化財 指定 昭和46年6月21日

益田兼見は益田氏11代当主で、山道(せんどう)庶子家から益田惣領家を継いだ知勇兼備の武将といわれています。 兼見は南北朝の争乱に伴い、暦応3年1340足利尊氏が派遣した石見守護・上野頼兼(よりかね)を助けて豊田城、高津城、稲積城、三隅城を攻略するなど北朝方として石見の各地に転戦しました。

その後、正平4年1349に尊氏の子足利直冬(ただふゆ)が九州に移って南朝に帰順すると、兼見も南朝に転じましたが、直冬の死後正平19年1364に南朝方として石見に進出してきた大内弘世(ひろよ)が幕府(北朝)に下ると、兼見もまた弘世に従い北朝方として三隅氏や福屋氏と戦いました。以後、益田氏は大内義隆がその家臣陶晴賢(すえはるかた)に滅ぼされるまで大内氏と関係を強めていきます。

また、兼見は強力な家臣団編成と支配機構の整備を行い、三宅御土居を築いて益田平野の本格的な開発を行うとともに、萬福寺、崇観寺(すうかんじ)医光寺(創建時は崇観寺の塔頭)などの寺院の創建にも力を注ぎました。兼見は時宗に帰依し、応安7年1374中須にあった安福寺を現在地に移転改築して萬福寺と改めて、自らの菩提寺とし、明徳2年1391に没しました。

この五輪塔は兼見の供養塔と伝えられ、萬福寺境内の椎山(ふもと)にありましたが、昭和58年の豪雨災害復旧にあわせて現在地に移設されました。高さ1.6mで、形式的には鎌倉時代後期に制作されたものと考えられ、父兼方(かねかた)の墓と伝えられる隣接する五輪塔とあわせて、鎌倉時代から南北朝時代にかけて益田に数多く運び込まれた御影石(六甲花崗岩)製石造物の代表的なもののひとつです。

平成23年3月 益田氏教育委員会

  • 全景(右手が兼見の墓碑)
    全景(右手が兼見の墓碑) 
  • 兼見の墓碑
    兼見の墓碑 
  • 父兼方の墓碑
    父兼方の墓碑 
  • 遠景 - 左手は歴代住職の墓碑(右隅が兼見の墓碑)
    遠景 - 左手は歴代住職の墓碑(右隅が兼見の墓碑) 
  • 遠景 - 墓碑のある墓地に登る石段の下から撮影
    遠景 - 墓碑のある墓地に登る石段の下から撮影 


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