祝融山
天福院
[天福禅院]
曹洞宗
☆☆☆
坐禅
写経
伊藤氏参拝済
佐賀新四国八十八ヶ所霊場第5番
- 住所・電話
- 〒840-0859 佐賀県佐賀市新栄西1-6-8 標高:4.4m 地図 GMAP 0952-24-1896
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歴史
伊藤氏メモ元和元年(1615)の創建以来この地にあり、現第30世。本堂は平成4年(1992)の改築。本尊は薬師如来。境内の大師堂は、佐賀新四国八十八ヶ所霊場第5番となっている。
境内の奥には、村了和尚の墓碑がある(解説板あり)。村了和尚については、「ふるさと佐賀探訪/HP」には、次のように記されている。
延宝5年(1677)鍋島光茂の時代、鍋島家とゆかりのある高伝寺・慶誾寺・静元寺・宗龍寺・龍泰寺・天祏寺・宗智寺の7寺だけを特別に保護する政策が採られ、圓藏院(市内中の館町)は外された。 このため、圓藏院住職の村了和尚はたびたび藩主に嘆願書を出したが、希望は叶えられなかった。そこで直訴を思い立ち、鍋島光茂公が慶誾寺に参拝する日、村了和尚は、その朝早く同寺にしのび込んだ。そして焼香台の下に身を隠し、光茂が焼香をしようとしたところ、焼香台の下から上訴状を光茂の面前に突き出した。会場は大混乱し、和尚は捕らえられた。
当時、直訴は斬罪の掟があり、和尚は、ここ天福院で打首になった。首は圓藏院にあり、その胴体が天福院に埋葬されたと伝わる。
寺の入口にある養老院と書かれた大きなお墓には、養老院で亡くなった身寄りのない人々が葬られている。これについては、Links① に次のように記されている。
天福院の先先々代住職(27世)渡辺鉄肝和尚は、日本初の養老院を佐賀に建てたことで知られている。明治40年(1907)アメリカへ留学した鉄肝和尚は、勉学に打ち込む一方貧困者救済にも関わり、日本に帰国した後、アメリカを見習って護国神社の南隣り(川原町)に養老院を建設した。以来、その運営に心血を注ぎ、天福院との間を下駄の音高く往復する姿を見て、人々は「鉄肝さん」と呼び敬愛した。
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ひとくちメモ
参道口には名号石(「南無阿弥陀佛」) が立っている。 山門前には卵型の墓碑群(歴代和尚墓)がみられる。
境内には大師堂があり、聖観音・弘法大師・不動明王が祀られている。 山門脇の松、本堂前の砂など手入れが行き届いている。村了和尚の墓碑は見逃してしまった。すみません。
写真
境内風景 - 本堂を背にして撮影 山門 大師堂 大師堂内(向って左手より聖観音・弘法大師・不動明王) 手水鉢(「安永二巳(1773)六月吉日」銘) 本堂前面の装飾 歴代住職墓 名号石(「南無阿弥陀佛」) - 参道口 喚鐘
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