布巻観音
[ノノマキさん]
仏教礼拝所
☆☆☆
縁結び
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- 〒849-0917 佐賀県佐賀市高木瀬町長瀬1432-2 標高:11.2m 地図 GMAP
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歴史
布巻観音の由緒には諸説[1][2]あるが、一番確からしいものは龍造寺家系の記録及び鳥羽院にある教信寺というお寺の由緒記などから判断すると次の通りである。
昔鳥羽天皇(1103-1156)の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、鳥羽上皇のために菩提を弔った。これが、佐賀県神埼市脊振町鹿路鳥羽院にある教信寺(現鳥羽院山 善信寺)である。
ところが季慶の孫の季益というの者が後に長瀬村に居を構えるに至ったために、教信寺にあった観音像を移したと思われる。教信寺由緒記の末尾に、「彼の山は里遠くして、人の通いも稀なりとて、後にこの観音を守り奉り、長瀬村の本地ぞと崇め奉りけり」とある。
この観音像は、機織りの神様、又縁結びの神様として遠近の信仰を集めて有名であった。通称ノノマキさんといっていた。頭上に十一面観世音を配し、手には蓮華の花を持ち給う姿である。特異な点は、光背の腰のあたりの背面に織物の巻板が真横に添えられていることであって、機織の神様であるので、御像の光背には腰のあたりに、真横に筬[3]の形をした彫刻がある。観音像は大正3年(1914)に補修彩色された。
昭和37年(1962)に、盗難の厄に遭い所在は判らない。当時の長瀬の御婦人達ははだし詣りの御願をかけて探されたそうであるが未だに行方が判らない。ただ、台座と光背だけが淋しく残っている。でも今は千住喜代治氏より御身代りの白磁の観音像が奉納されている。
西長瀬法常寺の古文書には大和町玉林寺の末寺の中に、佐嘉郡長瀬村布巻寺と記載されてあるのもあるが、これは玉林寺の住職によって観音像の供養が行われていたためであろうと考えられる。 また、当観音像は観音堂の前に鎮座している長瀬天満宮の本地仏であったと古書に記載されている。(以上布巻観音 | さがの歴史・文化お宝帳より)
ひとくちメモ
観音堂の扉は施錠され、内部の厨子も施錠されており内部は拝めなかった。 これも心無い仏像泥棒のせいである。残念。
トタン屋根に見えるがこれは御堂を保護するための覆屋で、本物の屋根はその下にあると思われる。 方2間のどっしりとした建物である。
写真
長瀬天満宮
当社の由緒は長瀬天満宮 | さがの歴史・文化お宝帳をご覧ください。
境内には、社殿の他、地蔵・大師堂、不動明王像・観音像・梵字石(と思われる)などがみられる。 神仏混交の趣である。社殿前には一対の肥前型狛犬が立っている。
社殿 - 長瀬天満宮 社殿 - 長瀬天満宮 肥前型狛犬 - 長瀬天満宮 肥前型狛犬 - 長瀬天満宮 梵字石(と思われる) - 長瀬天満宮 地蔵・大師堂(鳥居脇) - 長瀬天満宮 石仏・石塔群 - 長瀬天満宮 鳥居 - 長瀬天満宮 多布施川(右手が長瀬天満宮) - 下流の長瀬橋より上流に向かって撮影
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