野波神社
[野波大明神]
神仏習合
☆☆☆
肥前鳥居
歴史
祭神:仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥・淀比吽大神(淀姫神)(『三瀬村誌』(1977)より)
以下は『三瀬村誌』の記事を年代順に整理したものである。 移転・火災など様々な事象を乗り越えてきたお宮であることがわかる。
和暦 | 西暦 | できごと | 出典 |
---|---|---|---|
應神天皇代 | 268 | 神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった | 社伝 |
文中2年 | 1373 | 再興 | 棟木札銘[1] |
嘉吉2年 | 1442 | 初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした | 社伝 |
長禄2年 | 1458 | 再建 | 棟木札銘[1] |
元亀2年 | 1571 | 再々建 | 棟木札銘[1] |
天正年間 | 1574〜 1591 | 神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれた | 社伝 |
延宝2年 | 1674 | 2月、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった | 社伝 |
宝永元年 | 1704 | 再々々建 | 棟木札銘[1] |
天保14年 | 1843 | 3月、1575年祭施行 | 棟木札銘[1] |
明治6年 | 1873 | 村社に指定 | 社伝 |
明治43年 | 1910 | 神饌弊帛料供進の指定を受けた。村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された | 社伝 |
昭和27年 | 1952 | 北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿が詰ノ瀬山に移転改築され、12月13日に遷座式が執行された | 社伝 |
昭和28年 | 1953 | 4月8日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。この時失ったものは次の通り。
| 社伝 |
昭和48年 | 1973 | 詰ノ瀬山に北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきに至る。ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された | 社伝 |
当所より南南東500m(直線距離)登った所に下ノ宮がある。
ニの鳥居は肥前鳥居である。
ひとくちメモ
一の鳥居をくぐり、石段を数段登れば楼門がある。 楼門から石段・踊り場のセットを何度か繰り返す坂道を登ると、ニの鳥居がある。 さらに石段を数段登れば、毘沙門堂のある平坦面にたどり着く。 さらに数段登れば社殿のある平坦面である。 一の鳥居から社殿のある平坦面までは緩やかな傾斜で、途中に踊り場もあり楽に登れる。
楼門の両袖には武将姿の木像が祀られている。 ニの鳥居(肥前鳥居)の柱の銘は風化の為全く読めない。 毘沙門堂は施錠され、格子の間を通しての参拝となった。 毘沙門堂の前、側面には宝篋印塔他、仏に関連する石造物が多数見られる。 拝殿の前には一対の狛犬が鎮座。立派なものである。
北山ダムの湖底→ゴルフ場、最後に、この地と移転してきた当社。 周辺には民家は皆無。はじめに鎮座していた地に住んでいた氏子達も立ち退きで移転してしまったのだろう。長い歴史を持つ当社の今後の維持管理が気にかかる。
写真
楼門 楼門 - 上段より撮影 楼門の袖に祀られた木像 楼門の袖に祀られた木像 一の鳥居(明神鳥居) ニの鳥居 - 上段より撮影 ニの鳥居の額束(「野波大明神」) 境内風景 - 拝殿を背にして撮影 石祠・石塔・石仏 - 社殿に向っれ右手 拝殿屋根のスズメバチの巣跡 狛犬(吽形) 狛犬(阿形) 毘沙門堂 毘沙門堂内 毘沙門天 - 毘沙門堂 石造物群 □□大乗妙典一万部塔 宝篋印塔(浮彫にされている。珍しい)
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