定良山
萬福寺
[万福寺]
浄土真宗本願寺派
☆☆☆
行基
- 住所・電話
- 〒840-2103 佐賀県佐賀市諸富町寺井津467-2 標高:7.9m 地図 GMAP 0952-47-2117
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歴史
伊藤氏メモ創建は天文元年(1532)、開山は慶昭。慶昭の祖は、九州探題職今川了俊より数代を経た義秋(信秋)。義秋の代に居城[1]を造り姓を定良と改め、この地を領したことに当寺の縁起は始まる。
義秋は、千葉氏との戦いで戦死、その子・満秋も船橋の戦いで鹿江氏のために戦死した。その墓石は、川副町鹿江地区にあるという。
満秋の子・慶秋は父の死後に出家、居城を寺院として祖先の菩提を弔った。この寺院が、定良山萬福寺である。開基の慶秋は法号を萬福と称していたので、寺号を萬福寺とした。
当時は他宗派であったが、本願寺第12世(東本願寺第1世)の教如上人が止宿してから真宗に改宗。さらに、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に転派した。(『佐賀百寺巡拝』より)()
町名「諸富町寺井津」は「もろどみちょう てらいつ」と読む。 この「寺井」の由来については、徐福伝説に関係している。当ページの下部に記す。
ひとくちメモ
本堂の屋根は緑色。参拝当日天気は良すぎて太陽光の反射の為、よく確認できなかったが、緑色の瓦葺のようだ。 この屋根が遠くからも良く目立つ。 寺の周囲は赤茶色の煉瓦の塀となっておりこれも良く目立つ。
門前の辻には恵比寿・馬頭観音が露座している。
写真
地名「寺井」の起源・・・萬福寺所蔵の『寺井由来』
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秦(BC221-BC206)の方士徐福の船団が着いたのは、有明海の竜王崎(有明町)だったが、山が迫り上陸に適さなかったので、徐福は大きな酒盃を海に浮かべ流れ着いたところから上陸することにした。徐福一行は、永い航海で飲料水が不足していたため井戸を掘った。そして井戸の水で手を洗い、身も清めたということが伝わっている。
萬福寺所蔵の『寺井由来』によると、行基(661-749)が肥前に来て、天山から入江を眺めると、この地が光って照り輝いていたので「照江」と名付けていた。 和銅3年(710)、京太郎と町太郎なる者が、徐福の掘った井戸のことを知り、再びこの井戸を掘った。 徐福の井戸をあばいたというので、火災などが続発した。この地の三つの寺の僧侶が相談して、地名を照江から「寺井」と改称し、人災・火災を避けるため、井戸を石蓋で覆った。「手洗い」が訛って「寺井」という地名になったと伝えられている。
その後、井戸の所在は不明であったが、大正15(1926)、史跡調査のため、この地を発掘した。すると、地下3mの所に井の字形井戸角丸太の上に5 個の石で覆われた神秘の古井戸が発見された。これが徐福の掘った井戸であろうということになった。(以上 Links② より)
徐福が使ったと言われる井戸「徐福御手洗井戸」は100m足らず東側の徐福寺井橋の手前の民家の中にある。 作者は民家の方に声をかけるのは控え、塀の外から観察した。
徐福寺井橋は色鮮やかな朱色の橋となっており。当地区の徐福の信仰の深さを感じる。
当地には珍魚斉魚・片葉の葦・搦・アミなどなど多くの徐福に関するキーワードが残っている。
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