仏旗 蛎久天満宮(かきひさてんまんぐう) [蠣久天満宮] 神道★★  KAKIHISA-TENMANGUU SHRINE 龍樹菩薩像伊藤氏参拝済

  • 龍樹菩薩像
    龍樹菩薩像 
  • 社殿
    社殿 
  • 鳥居(両脇はムクノキの大木)
    鳥居(両脇はムクノキの大木) 
  • 神門(両サイドには肥前型狛犬が鎮座。右下に小さく写っている。左手は木の枝に隠れて見えない。)
    神門(両サイドには肥前型狛犬が鎮座。右下に小さく写っている。左手は木の枝に隠れて見えない。) 
住所
〒849-0931 佐賀県佐賀市鍋島町大字蛎久1448 標高:9.3m MAP GMAP
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蛎久天満宮
蛎久天満宮の参道景観を支える 田中邸 佐賀市[佐賀県]

歴史

当社は天喜2年1054太宰府天満宮から御分霊を勧請し、奉祀された。 太宰府天満宮、水田天満宮と共に鎮西三大天満宮といわれていたが、元亀元年1570大友の乱で焼失。 元亀4年1574龍造寺隆信が社殿を造営し龍造寺代々の信仰があつく、鍋島氏となってからも初代勝茂、2代光茂、3代綱茂などの信仰が深く、神殿、拝殿、付属建物も造営された。 明治中頃までは春秋2回の祭典には門前、東西に休憩所を設け、一の鳥居[1]までは両側に売店や見世物小屋が並び、参詣人織るように多く盛況であったという。(Linksのページより)。

当宮には龍樹菩薩堂(社殿に向かって左手奥)・十一面観世音菩薩堂(神門をくぐって右手)・大日如来堂(神門に向かって右手)をはじめ多数の石仏が安置されている。 龍樹菩薩像(龍樹菩薩堂内)は像高3.6m(楠材の寄木造)の巨大なものである。同像の案内板の内容をここに掲示する。

当宮の南に伽藍を構えている栖龍禅院は天文23年1554当社の社家・右近氏の建立という。

鳥居をくぐって左手には、「蠣久大神宮略記」と題された案内板があるが、同大神宮の所在は未確認。 ここに案内板の内容を掲示する。

ひとくちメモ

2018-09-02(日曜日) 12:00頃鳥居をくぐり、さらに神門をくぐる。この神門はどっしりとした趣の四脚門である。 境内では多数の人たちがグランドゴルフを楽しまれていた。 この場所は近在の住人の憩いの場となっているようである。

社殿前で合掌。その後お目当ての社殿に向かって左手の龍樹菩薩堂に参拝。 巨大で存在感のある仏像である。堂内は土間となっており、間近で拝むことができる。 この仏像は海岸に流れ着いたとのいい伝えがあるというが、それが事実なら流れ着いた時の地元の方々の驚きは並大抵のものではなかったろうとつくづく思う。

千手観世音菩薩堂内の観音像は金色の装飾が施されている。祭壇は格子戸が設置され観音様のお姿はよく見えない。 大日如来堂も同様に、格子戸越しの参拝。薄暗い格子戸内を目を凝らして見ると、木仏で智拳印を結んだ金剛界大日如来様である。像高70cmほどの坐像。かなりの古仏と思われる。

鳥居の前にはしっくい壁の田中邸がみられる。 グランドゴルフは終わり、みなさん昼食に戻られ、境内は静かになった。 鳥居の両脇の2本の大木の名が知りたくて誰か通りかかるのを待っていると、運良く鳥居前近くのお宅に嫁いで長年住まわれているという初老の女性に出会う。 この木は「ムクノキ」と教えて頂いた。 さらに、昔は参道の両脇は田中邸をはじめ商店が立ち並んでおり、浮立(ふりゅう)が盛大に行われ縁日には多くの参拝客で賑わった事を教えて頂いた。 この女性のお宅も近年建て替えたが、天保期1831-1845に建てられたものであったという。 感謝感謝である。ちなみに「浮立」とは佐賀県を中心に盛んに行われた民俗芸能で、鉦・太鼓を打ち鳴らしながら集団で踊る行事のことである。

龍樹とはインド仏教の僧侶(生没年は不詳)。日本仏教でも時々「仏教の祖」として耳にする僧侶である。 ところで、この仏像が何故「龍樹」とわかった、あるいは判定できたのであろうか? すごく興味がある。 ここより北側には天山・雷山・背振山をはじめとする福岡県と佐賀県の県境の山脈がある。 雷山周辺には主に福岡県側に限られるが、千如寺を始め多数の寺を開いた伝説の僧清賀上人(伝インドより渡来)も活躍していた。清賀上人像の可能性は無いのかと乱暴な推理をしているところである。


写真

  • 神門 - 境内より撮影
    神門 - 境内より撮影 
  • 神門の乳金具
    神門の乳金具 
  • 龍樹菩薩堂
    龍樹菩薩堂 
  • 龍樹菩薩像(膝部。太い金具で部材を結合されている)
    龍樹菩薩像(膝部。太い金具で部材を結合されている) 
  • 龍樹菩薩像(掌部)
    龍樹菩薩像(掌部) 
  • 龍樹菩薩像(頭部)
    龍樹菩薩像(頭部) 
  • 社殿裏手の石造物郡
    社殿裏手の石造物郡 
  • 社殿裏手の石造物郡
    社殿裏手の石造物郡 
  • 十一面観世音菩薩堂
    十一面観世音菩薩堂 
  • 十一面観音像 - 十一面観世音菩薩堂内
    十一面観音像 - 十一面観世音菩薩堂内 
  • 大日如来堂
    大日如来堂 
  • 大日如来像 - 大日如来堂内
    大日如来像 - 大日如来堂内 
  • 大日如来堂(遠景)
    大日如来堂(遠景) 

田中邸

天保4年1833頃に建築され、その後の増築などにより現在の形になったと言われている。元は造り酒屋であったが、現在は専用住宅として使われてる(Linksのページより)。

  • 田中邸
    田中邸 
  • 田中邸の看板
    田中邸の看板 
  • 軒下の杉ボテ
    軒下の杉ボテ 
  • 田中邸 - 天満宮側より撮影
    田中邸 - 天満宮側より撮影 

龍樹菩薩像

龍樹菩薩堂脇の案内板の内容をそのまま下に記す。

龍樹菩薩

本像は、像高3.6mで、楠材で作られており、寄木造りである。 面部でやや堅さがみとめられるものの大振りの衣装を自然にまとっているなど作者の並々ならぬ彫技の程がうかがえる。 頭部が体部に対してやや大きく、両耳が側頭部に平面的に密着している。 全体的に細部を省略し、目鼻だちを大きくとらえている。 納衣の両肩の上に衣をまとう南北朝時代の特徴を備えている。

一方、膝頭の中央前部が直線となっておらず、膝頭の下部も内側に切れ込むという伝統性も兼ね備えている。

以上のことから、本像の製作年代は、室町時代の前期と推察される。 又、一説には次のようなことが伝えられている。

昔、有明海がこの辺まで入り江となっていた頃、海中から五色の光が立ちのぼっているのを発見した漁民たちが集まって笛を吹き、鐘をたたいて、一斉に掛け声をかけて引き上げたところ、巨大な木彫の仏像であった。 それを現在の場所に移しまつったのが、この龍樹菩薩像である。 又、この時のはやし踊りが、蠣久浮立(かきひさふりゅう)の起りとされている。

佐賀では、物の大きいことを「蠣久のじゅうじ菩薩のごと」とよくたとえる習慣がある。

蠣久大神宮

当社の所在は作者は未確認。鳥居をくぐって左手の案内板の内容をそのまま下に記す。

蠣久大神宮略記

蠣久大神宮は、全国でただ1社、伊勢神宮よりママ分霊をまつった社である。

杉野隼人という神を敬う心の厚い人が、18歳から44歳まで26年間に春秋55回も、伊勢神宮に参拝し、国家安泰、万民安全を祈願した。 前代未聞のその熱意に対して、五十鈴川の御神石を、神体とし、天文11年15433月、神崎郡三田川町田手[2]に分霊をまつった。 天文の秘話に永禄8年15663月伊勢神宮の神官竹市善右衛門が杉野宅を訪れ「西の方にもっと貿易など盛んな市があり、参詣者も多く御神徳を蒙らせたいと思うので移したらいかがだろう」ということで蠣久の方へ遷座されたという記録がある。

佐賀藩祖、鍋島直茂は、老年まで男の子に縁がなかったので蠣久大神宮に陽泰院と夫婦で月参りをし、満願の日に、初代藩主勝茂の誕生をみたといわれている。

天正2年1575直茂は佐賀市に居城を気付き、蠣久に住む町人・商人を現在の六座町・伊勢町に移住させた。 蠣久天満宮・蠣久大神宮も移そうとしたが、神の心がかなわず、分霊を北面天満宮[3]伊勢神社[4]にまつるようになった。


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