heritage 腹切り地蔵(はらきりじぞう) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 三瀬街道

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〒840-0203 佐賀県佐賀市大和町大字梅野   標高:79.9m 地図 GMAP
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歴史

高伝寺の第11世湛然和尚が藩主鍋島光茂の裁定に抵抗して、肥前より筑前へ出国しようとしたところ、光茂の命の出国慰留の使者(3名)が腹を切って説得。やっとのことで思いとどまらせた。 本地蔵堂は村人がこの3名の慰霊の為に建てたものである。 詳細な事の顛末はLinksのページ(さがの歴史・文化お宝帳)に記載されている。抜粋する。

湛然和尚は鍋島家の菩提寺である高伝寺の第11世の住職であった。 寛文のころ城内中の館円蔵院の住職村了和尚は、かねがねの希望として、円蔵院は龍造寺家純代々の菩提寺だから藩内12か寺の列に加えてもらうように願っていた。 ところが思うように行かないので、藩主光茂が本庄の慶誾寺へ参詣した機会をとらえて、光茂が礼拝する時仏壇の下から直訴した。 光茂は怒って八戸の天福院で寛文9年(1669)2月2日死罪にすることになった。

湛然和尚はこのことを聞いて不びんに思い、助命を嘆願したが聞入れられなかったので、その場から直ちに鍋島新庄の東善寺に入った。 これを知った光茂は上使をもって寺に帰ることを勧めたがこれを退け、逆に出国を願うこと数回にも及んだが許されなかった。 そこで湛然和尚は出国脱出を図り東善寺を出て三反田(さんただ)[1]地蔵橋[2]辺りまで来た時、藩の捜索隊に追い付かれ押し問答のすえ、使者は申し開きのために切腹した。 そのころ井手の通天寺にいた深江信渓の慰留もあって、一先ずこの通天寺で暮すことになった。 その後再三にわたって上使が来て光茂の上意を伝えたので、湛然もようやくこの地に留まることを承諾した。 光茂は和尚のために菅の谷・熊の峰の山林を開墾し、薪炭料として山林4町5反(4.5ha)、寺地7反余(70a)、4間に5間の御堂、庫裡、書院を建て、食料として10石を贈った。

これが華蔵庵である。 和尚はここを訪れる人があれば大慈悲の道を諭し、人去れば座禅三昧に行雲流水、風月を楽しむなどして十有一年の禁足に近い生活をし、延宝8年(1680)11月10日(新暦12月30日)死去した。大和町松瀬字仲の華蔵庵跡にその墓がある。

地蔵橋は三瀬街道のルート上にある。

ひとくちメモ

地蔵堂内には3体の地蔵菩薩が安置されている。 地蔵堂の脇には真新しい歌碑が立っている。 その脇にはシャクナゲがきれいに咲いていた。 裏山の所々にシャクナゲが見られる。

地蔵堂の前の名尾川の淵となっている。清流である。 川底・岸には巨大な岩盤がみられる。

写真

  • 遠景 - 地蔵橋より撮影
    遠景 - 地蔵橋より撮影 
  • 地蔵堂前の風景
    地蔵堂前の風景 
  • 地蔵堂内
    地蔵堂内 
  • 地蔵堂前の名尾川
    地蔵堂前の名尾川 
  • 地蔵堂前の名尾川
    地蔵堂前の名尾川 
  • 地蔵堂前の名尾川
    地蔵堂前の名尾川 

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脚注