heritage 大師堂(だいしどう) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 六地蔵塔

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〒840-0214 佐賀県佐賀市大和町大字川上539-6   標高:23.8m 地図 GMAP
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歴史

御堂の縁起等は不詳。分かり次第追記します。 御堂内に昭和52年(1977)銘の改築寄付者名簿が掲示されている。

御堂の脇に2基の六地蔵塔がある(当ページ下部参照のこと)。 右側に立っている二層式の六地蔵塔の幢身部分に「天正七(1579)」の銘が確認できる。

ひとくちメモ

祭壇には観音菩薩と弘法大師が祀られている。

当大師堂の周辺には2基の道標が見られる。

写真

  • 遠景
    遠景 
  • 祭壇
    祭壇 
  • 祭壇(拡大、観音菩薩と弘法大師)
    祭壇(拡大、観音菩薩と弘法大師) 
  • 御堂脇の六地蔵塔
    御堂脇の六地蔵塔 
  • 向って左手の六地蔵塔の龕部
    向って左手の六地蔵塔の龕部 
  • 大師堂の軒下(2津の扇型には御詠歌が書かれていたものと思われる)
    大師堂の軒下(2津の扇型には御詠歌が書かれていたものと思われる) 

天正7年の六地蔵塔

向って右手の六地蔵塔の龕部(二層となっており、上部には6体の観音様のようだ)
向って右手の六地蔵塔の龕部(二層となっており、上部には6体の観音様のようだ) 
向って右手の六地蔵塔の幢身部分(「天正七(1579)」の銘が確認できる)
向って右手の六地蔵塔の幢身部分(「天正七(1579)」の銘が確認できる) 

天文14年(1545)正月、佐嘉域が少武の 「軍勢に攻められようとした時、城主龍造寺剛忠入道家兼(時に92才)が綾部(三養基郡)城主馬場頼周(ばばよりちか)の謀略にかかり、そのことからわずか2日間に龍造寺家の柱石と思われる6人が全滅した。 家兼は間もなく筑後から帰城し、同年4月2日、頼周・政員(まさかず)父子を逆襲してその首級をあげ一門の仇を報いた。しかもその恩怨を越えて頼周父子を万寿寺高城寺に葬り手厚い供養をした老雄の武士道美談を残した。(淀姫社頭の戦い)

その後、川上地方に異変が続き、これは與止日女神社々頭で悲惨な最期をとげた龍造寺一門のうらみからであろうという風説が生まれたので、この悲劇から30余年を経た天正7年(1579)、里人らがその菩提をともらうために、淀姫神社の境内に六地蔵を建立したものを、後に三の辻から、かいまがりに移したものと伝えられている。(以上 『大和町史』(S50.11.3)P666より)


2基の道標

道標①(赤丸の地点。左右方向は国道202号線)
道標①(赤丸の地点。左右方向は国道202号線) 
道標①南面(「大正十年」の銘がある)
道標①南面(「大正十年」の銘がある) 
道標①東面(「オフドウ」の文字が見える。道標の最上部に人の手が右側(北)を指さしている)
道標①東面(「オフドウ」の文字が見える。道標の最上部に人の手が右側(北)を指さしている) 
道標②東面(「フドウサンミチ」の文字が見える)
道標②東面(「フドウサンミチ」の文字が見える) 
道標②南面(「大正九年5月」の文字が見える)
道標②南面(「大正九年5月」の文字が見える) 

大師堂の南側(②)と東側(①)に2基の道標がある。地図を掲示します。

①には「オフドウ」の文字が刻まれ、道標の最上部に人の手が浮彫されて北方向(実相院・與止日女神社方向)を指指している。 「大正十年(1921)」の建立銘がある。

②には「フドウサンミチ」の文字が刻まれ、「大正九年(1920)5月」の建立銘が確認できる。

①②は一年違いであるが、ほぼ同時期に建立され、両者共「フドウ」の文字が見える。 同じ目的で建立されたのだろう。 実相院への道順を示す道標だろうか?

周辺には同様な道標がまだあるのかもしれない。深入りは禁物。自重。


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