heritage 牛尾神社(うしおじんじゃ) [若王子大権現] 神仏習合 ★☆☆ 肥前鳥居 六地蔵塔

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〒845-0012 佐賀県小城市小城町池上4793   標高:61.4m 地図 GMAP
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歴史

社殿脇の案内板の内容を下に記す。

肥前国小城郡 牛尾山鎮座牛尾神社御由緒略記

  御祭神 天之葺根命

当神社は延暦15年(796)9月9日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という。 勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。  

 

当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり。 その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年(1069)8月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元2年(1157)花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。  

 

寿永2年(1183)源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉つたことは「東鏡」(鎌倉幕府日誌)に明記してある。  

 

文冶元年(1185)源平合戦の(みぎり)、参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵3000余騎を以つて、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。 平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金500両を当山に奉納ありたり。  

 

元亀年中(1570-1573)鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領16石3斗7升御改付ありたり。  

 

古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。  

 

明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。  

 

明治6年(1873)村社に列し、昭和16年(1941)郷社に昇格し現在に至る。  

 

祭礼:春祭・4月15日、例祭・10月15日、秋祭・12月17日  

 

宮司 花薗康行  

明治維新前までは若王子大権現・別当坊が一体となって神仏を祀っていたことが伺える。 広大な境内には、別当坊・牛尾神社社殿がある。肥前鳥居六地蔵塔なども見られる。

ひとくちメモ

参道口と山頂近くの社殿のある平坦面の標高差約60m。 石段の段数は約200段。年寄りの作者にとってはかなりキツイ。 石段は前半部分(中宮あたり)はピッチが広く、後半部分は普通の石段のピッチである。 石段が昔からのままとすると、この土地の領主もしくは当社の宮司など偉い人達は途中まで駕籠で、中宮あたりで駕籠を下りて徒歩で参拝したのかもしれない。

以下 参道口一の鳥居金毘羅神社中宮ニの鳥居の順で記事を書きます。

写真

  • 拝殿(手前)と神殿
    拝殿(手前)と神殿 
  • 境内風景 - 拝殿を背にして撮影
    境内風景 - 拝殿を背にして撮影 
  • 石塔・石仏群 -境内の東側
    石塔・石仏群 -境内の東側 
  • 石塔・石仏群 -境内の東側
    石塔・石仏群 -境内の東側 
  • 石塔・石仏群 -境内の東側
    石塔・石仏群 -境内の東側 
  • 石塔(拡大。「元禄 □□(梵字)南無辨財天」) -境内の東側
    石塔(拡大。「元禄 □□(梵字)南無辨財天」) -境内の東側 
  • 境内風景 -境内の東側より撮影
    境内風景 -境内の東側より撮影 
  • 南側の田園風景 - 境内より撮影
    南側の田園風景 - 境内より撮影 
  • 南側の田園風景 - 境内より撮影
    南側の田園風景 - 境内より撮影 

石段

石段 - 中宮よりやや下の所(ここまではピッチがゆるやか)
石段 - 中宮よりやや下の所(ここまではピッチがゆるやか) 
中宮脇の牛尾神社への石段(赤丸の地点に中宮・ここからは石段は普通のピッチ)
中宮脇の牛尾神社への石段(赤丸の地点に中宮・ここからは石段は普通のピッチ) 

下に参道口からのそれぞれの場所への石段の数を掲示する。 作者が息を切らしながら数えたものなので誤りなどがある可能性大です。

建物名前地点から
の段数
石段の状態
参道口-この間石段のピッチは長い
一の鳥居3
金毘羅神宮40
中宮110
別当坊10この間石段のピッチは短い
ニの鳥居8
社殿域29
*合計*200-

中宮の下あたりまでは石段のピッチは長く、その後は普通の石段のピッチとなっている。

石段は修復痕多数。危険はあまり感じないが、革靴は避けたほうがよさそう。 4-5日晴天の後の参拝であったが、一箇所、山水で濡れていた所があった。 スリップ・転倒ご用心

作者は石段を登って参拝したが、北側から社殿のある平坦面までは車道があるようだが未確認。 社殿の脇には数台分の駐車スペースもあるようだ。


参道口

参道口(右手に石碑「牛尾神社参道」)
参道口(右手に石碑「牛尾神社参道」) 
参道口脇の案内板
参道口脇の案内板 
参道口前の石塔・石仏たち
参道口前の石塔・石仏たち 
参道口脇の草むらにも石造物が確認できる
参道口脇の草むらにも石造物が確認できる 

参道口は当社の南側にある。

脇には「牛尾神社参道」と記された石碑、大きな案内板が設置されている。


一の鳥居

一の鳥居(肥前鳥居)
一の鳥居(肥前鳥居) 
一の鳥居の額束(「若王子大権現」)
一の鳥居の額束(「若王子大権現」) 
一の鳥居(向って右の柱。びっしりと文字が刻まれているが奉納年号名は判読できない)
一の鳥居(向って右の柱。びっしりと文字が刻まれているが奉納年号名は判読できない) 
一の鳥居(向って左の柱。びっしりと文字が刻まれているが奉納年号名は判読できない)
一の鳥居(向って左の柱。びっしりと文字が刻まれているが奉納年号名は判読できない) 
一の鳥居(肥前鳥居) - 境内から撮影
一の鳥居(肥前鳥居) - 境内から撮影 
六地蔵塔 - 一の鳥居脇
六地蔵塔 - 一の鳥居脇 

一の鳥居は肥前鳥居。

両側の柱には文字がびっしりと刻まれているが、奉納年を示す銘は作者は確認出来なかった。 拓本が取れれば何とかなると思われる。残念。

鳥居の脇には六地蔵塔が祀られている。

ここから、石段が始まる。


金毘羅神社

金比羅神社・社殿
金比羅神社・社殿 
石段(左右方向が牛尾神社の参道石段)
石段(左右方向が牛尾神社の参道石段) 
境内風景(鳥居(明神鳥居)が見える) - 社殿を背にして撮影
境内風景(鳥居(明神鳥居)が見える) - 社殿を背にして撮影 
石仏2体 - 石段を登った右手奥
石仏2体 - 石段を登った右手奥 

牛尾神社の参道石段脇にある、石段を登った所にある。

小さな社殿と鳥居がある。

石段を登ってすぐ右手奥には2体の石仏が祀られている。


中宮

中宮脇の牛尾神社への石段(赤丸の地点に中宮・ここからは石段は普通のピッチ)
中宮脇の牛尾神社への石段(赤丸の地点に中宮・ここからは石段は普通のピッチ) 
祭壇(如来型の木仏が祀られている)
祭壇(如来型の木仏が祀られている) 
石塔・石仏群 - 中宮に向って右手
石塔・石仏群 - 中宮に向って右手 

中宮は間口1間ほどの小堂となっている。

御堂内には如来型の木仏の上半身が祀られている。

建物に向って右手には多数の石塔・石仏がみられる。


ニの鳥居

ニの鳥居(肥前鳥居)
ニの鳥居(肥前鳥居) 
ニの鳥居(肥前鳥居)
ニの鳥居(肥前鳥居) 
ニの鳥居の柱(左。びっしりと文字が刻まれている)
ニの鳥居の柱(左。びっしりと文字が刻まれている) 
ニの鳥居の柱(右。びっしりと文字が刻まれている)
ニの鳥居の柱(右。びっしりと文字が刻まれている) 

両柱に「肥前国小城郡牛尾山神宮寺奉造立 石鳥居2柱」 「国主 大檀那 鍋島信濃守豊臣勝茂朝臣 慶長ニ年丁酉(1597)卯月吉日」と刻まれている。 佐賀県重要文化財。 (以上 鳥居脇の石碑(佐賀県教育委員会)より)

ここで「鍋島信濃守豊臣勝茂朝臣」とは佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂(1580-1657)のことだろう。

鳥居が奉納されたのが勝茂、16-17歳のころ。 勝茂の元服の記念だったのかもしれない? 「勝茂」の名には「豊臣」姓が冠されている。慶長ニ年は秀吉(1537-1598)没の1年前の年。

鳥居をくぐれば、もうひと頑張り社殿が見えてくる。


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