竜王山
勝妙寺
日蓮宗
SYOUMYOUJI TEMPLE
名鐘
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- 〒845-0023 佐賀県小城市三日月町織島3415 標高:16.2m MAP GMAP 0952-72-6119
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歴史
境内の案内板の内容を下に記す。
龍王山勝妙寺
正和2年1313千葉県中山法華寺2世日高上人の「鎮西弘通」の命を受けた日厳上人のとき、 小城町松西谷に創建され、日蓮宗鎮西本山光勝寺の院家[1]として千葉胤貞・胤泰公の庇護を受けた。 5世日鏡上人のとき、藤織村龍王(東分・織島神社付近)に移転したが大友宗麟の佐賀城攻め(1570年・今山の戦い)の戦乱により焼失し、7世日恵上人により現在の地に再興された。 本堂正面には「勅許」の額が掲げられ、代々の藩主に謁見できる格式のあった日蓮宗の名刹寺院である。
勝妙寺には日蓮聖人直筆の曼荼羅本尊がある。 また、法華経寺1世から19世の(鎌倉・南北朝・室町期)の住職が勝妙寺の歴代住職に授与した曼荼羅が現存している。
寺内の墓所には「葉隠」の述著山本常朝の本家である中野家の墓所があり、 常朝も7歳のときよりしばしば参詣していた。 常朝の従兄弟にあたる中野数馬利明の死去に際し、佐賀藩2代藩主鍋島光茂、3代綱成は冥福を祈り半鐘(元禄12年1699作)を献じている。 この半鐘は竜頭の型式で肥後新鐘の特色を有し、寺庭の銀木犀とともに市重要文化財に指定されている。 石造山門[2]は書聖中林梧竹1827-1913によるものである。
平成22年3月 小城市教育委員会
日蓮聖人直筆の曼荼羅本尊については、当ページ末尾の大曼荼羅御本尊についてをご覧ください。
ひとくちメモ
門前は広大な麦畑である。 広い駐車場脇には大きな題目石があり、正面に中林梧竹書の文字が描かれた山門がある。 なんとも不思議な書体である。 山門をくぐれば境内である。 本堂前の庭もかなり広い。 本堂には「勝妙寺勅許」の文字が描かれた扁額が掛けらている。 軒下には喚鐘(半鐘)が掛けられているが、これは佐賀藩主寄進のものではなさそうである。
日蓮上人直筆の「曼荼羅本尊」・市指定文化財の銀木犀は未確認。残念無念。
写真
全景 本堂の扁額 題目塔 境内風景 - 本堂を背にして撮影 日蓮聖人像 釈迦如来像 山門 - 境内より撮影 鐘楼の台座と思われる 門前の風景(広大な麦畑である) 喚鐘(佐賀藩主寄進のものとは異なるものと思われる)
伊藤氏メモ大曼荼羅御本尊について(「日蓮宗佐賀県宗務所/HP」より)()
日蓮聖人直筆で勝妙寺に奉安されている大曼荼羅御本尊は、弘安元年1278日蓮が57歳のとき、日賢と云う者に授与したものである。 日賢は俗名を依智三郎直重といい、日蓮に刃を向けた人である。
日蓮は、文永8年1271龍口法難に遭い首を打たれようとした。 このときの首打ち役人が依智三郎直重である。日蓮は難を逃れたが、佐渡へ島流しの身となった。 文永12年1275幕府より赦免状が届き鎌倉へ帰ったが、同年、山深い波木井ノ郷身延山へと入山した。
龍口法難より8年後の弘安元年1278のある日、身延の草庵を訪れた旅姿の老武士があった。 この者こそ、依智三郎直重であった。 役目とはいいながら日蓮に刃を向けた事を深く懺悔し法華経の信者とならんことを誓い、また、日蓮の弟子にと熱望した。 日蓮は非常に喜び日賢という名前を授けた。直重はその場で剃髪し出家した。
このときに授与された本尊が勝妙寺に奉安されている御本尊で、日厳上人が鎮西下向の際、 この本尊を師範日高上人より託されたと伝えられており、逆縁の曼荼羅、又は剃髪の曼荼羅と呼ばれている。
脚注
関連寺院(※過去に関連していた寺院も含みます。必ずしも現在関連している寺院とは限りません。)
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