heritage 宝樹山(ほうじゅさん) 清浄院(しょうじょういん) [清浄禅院] 臨済宗南禅寺派 ★☆☆ 六地蔵塔 唐津街道 伊藤氏参拝済

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〒845-0012 佐賀県小城市小城町池上3699   標高:17.4m 地図 GMAP 0952-73-2594 
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歴史

伊藤氏メモ元は天台宗。寺内に南北朝時代(1336-1392)の仏像があることから、この頃より以前の創建であろうという。 天文17年(1548)臨済宗に転じた。以来25世を数える。創建以来この地に存する。()

『佐賀県の歴史散歩』によれば、 寺には、幕末の勤王志士、祇園太郎(ぎおんたろう)(古賀利渉(こがとしみつ))の墓がある。 寺の北には藩政期小城郡西郷(さいごう)(現、小城町南西部)の大庄屋古賀家屋敷が残っている。 利渉はこの古賀家の出身であるという。

寺の東側を流れる晴気川の対岸には唐津街道が通っている。参道途中の晴気川の土手には大黒天と石祠がみられる。

ひとくちメモ

伊藤氏メモ寺院全体に古刹・名刹の風があり、かつ禅宗らしい引き締まった感のある寺院である。本堂右手前の新しさの残る建屋は書院で、集会などに使われているという。屋根部は茅葺きになっており新旧が交錯した建屋である。

本堂左手の墓地域に入ってすぐ右手には、幕末勤皇の志士・古賀利渉(こがとしみつ)(祇園太郎)の墓所があり、詳細な案内表示板が立っている。当寺のすぐ北側の空地の道沿いに[(大庄屋)古賀家屋敷跡の石碑]がある。利渉はこの古賀家の当主であったが脱藩し勤皇の志士となったという。(2018-09-16)

利渉に関する記事はこちら

写真

  • 書院
    書院 
  • 境内風景 - 本堂を背にして撮影
    境内風景 - 本堂を背にして撮影 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 書院の屋根(カヤブキ)
    書院の屋根(カヤブキ) 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 本堂前面の装飾
    本堂前面の装飾 
  • 境内風景 - 本堂を背にして撮影
    境内風景 - 本堂を背にして撮影 
  • 古い墓石群 - 参道脇
    古い墓石群 - 参道脇 
  • 参道(敷石と芝生の色合いがなかなか良い)
    参道(敷石と芝生の色合いがなかなか良い) 
  • アジサイ - 参道
    アジサイ - 参道 
  • 山門
    山門 
  • 六地蔵塔 - 山門脇
    六地蔵塔 - 山門脇 
  • 六地蔵塔 - 鐘楼前
    六地蔵塔 - 鐘楼前 
  • 門柱
    門柱 
  • 遠景
    遠景 
  • 梵鐘
    梵鐘 
  • 喚鐘(赤錆のようなものが確認できる。素材が鉄のようだ)
    喚鐘(赤錆のようなものが確認できる。素材が鉄のようだ) 

大黒天と石祠

大黒天と石祠
大黒天と石祠 
大黒天と石祠
大黒天と石祠 
大黒天の台座部(穴があけられている)
大黒天の台座部(穴があけられている) 
石祠
石祠 
大黒天と石祠(後ろ姿)
大黒天と石祠(後ろ姿) 
遠景
遠景 

唐津街道から清浄院に向かう途中、晴気川の東岸の土手の上に立っている。 大黒様は良いお顔をされておられる。(場所はこちら)


伊藤氏メモ[佐賀新聞/さが維新前夜(18)祇園太郎と名乗って/2017-5-6]より抜粋(2018-09-16)

大庄屋のあるじがこつ然と姿を消したのは、安政5年(1858)のことだった。小城郡西郷(現在の小城市小城町南西部)の屋敷を3人の小城藩士が訪れた後、当主の古賀利渉が行方をくらませた。

利渉は天保4年(1833)生まれ。幼いころから学問が好きで、小城藩の藩校興譲館で学んだ。20代半ばで家督を継ぐと、庄屋の職務の一切を取り仕切るなど才覚を発揮した。その利渉が、藩の政治姿勢とは相いれない尊王攘夷の思想に染まっていた。言動を問題視した藩から切腹の勧告を受け、脱藩した。

脱藩した利渉は、播磨(現在の兵庫県)の儒学者・河野鉄兜(こうのてっとう)に弟子入りした。鉄兜は諸藩の志士とつながりがあった人物で、利渉は鉄兜の紹介で京都や大阪にたびたび足を運び、志士たちと交流を深めた。

播磨で3年ほど過ごした後は長崎に移り、各藩の情報を収集していたとみられている。長州藩士との人脈もでき長州との間も行き来するようになったのはこの時期で、脱藩者という素性を隠すためか祇園太郎の別名を使い始めた。

利渉は長州藩士桂小五郎の紹介で文久3年(1863)、朝廷の教育機関で京都にあった学習院に出仕し、尊王攘夷派の公卿だった正親町公董(おおぎまちきんただ)らの知遇を得たとされる。正親町家の文書によれば公董が同年、攘夷実行を各藩に促す勅使として九州に向かった際に随行を命じられており、信頼は厚かったようだ。ただ、旅は短かった。この年、薩摩藩などの公武合体派が、尊王攘夷派の長州藩士や公卿を京都から追放する[八月十八日の政変]が起き、公董は召還命令を受ける。体調を崩していた利渉は九州に留まり京都に戻ることはなかった。

佐賀藩で副島種臣らさまざまな人物と密会し、近隣藩の有志とも会合を持ったと伝わるが、史料は残っていない。病気が悪化すると小城に戻り、慶応2年(1866)に亡くなった。

尊王攘夷に傾倒した端緒を含め記録が乏しい利渉。桜田門外の変に加わった水戸藩士ともつながり、長州滞在時には奇兵隊に入ったという逸話も残るが、奇兵隊の名簿に名前はなく、行動は謎に包まれている。

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