熊野権現
神仏習合
★☆☆
砥川石工
小城新四国霊場第1番
歴史
寛永年間(1624-1644)後藤遊仙によって開山された。
権現山一帯は当時多久家の領地であった。 島原の乱(寛永14年(1637))のおり、乱鎮圧のため、多久茂辰が出陣。遊仙に武運長久を祈願させ、権現山の中腹に熊野権現を勧請したのがはじまりである。
現在は石祠(神殿)・鳥居・護摩堂が残っている。 護摩堂の前には元禄4年(1691)に平川与四右衛門[1]が制作した石造布袋尊が鎮座している。(以上 門前の案内板(小城市教育委員会(平成21年(2009)10月))より)
布袋尊の台座には「元禄四辛未天(1691) 石工平川與四右衛門」銘。(Links② より)
鳥居(肥前鳥居)に向って左手の柱に「寛永十六己卯(1639)九月廿日・・・石蔵坊盛久」銘が確認できる。
ひとくちメモ
写真
門前の石仏群
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門前には鳥居に向って左手には「元禄4年(1691)・平川与四右衛門」銘の布袋像、 右手には覆い屋の中に9体の石仏、さらにその右手に五輪塔・石龕群がみられる。
布袋像の保存状態は良好。
覆い屋の中の9体の石仏は少し劣化している。 近隣に露座していたものがここに寄せられたのだろうか? これらも、砥川石工の手によるものだろう。
護摩堂
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御堂前には霊場札「小城新四国 第一番 本尊 釈迦如来(真言)」が掲げられている。 門前の民家の方のお話によれば、3-4年前までは毎年の春夏の彼岸の時期には参拝団が訪れていたが、現在は参拝団は見られないとのこと。これはコロナウイルスがきっかけのようだ。早いコロナ終息を願うばかりだ。(2022-11-23記)
御堂内の祭壇には多数の仏像が祀られているが、日差しがガラスに反射して良く見えない。 弘法大師のみ確認できた。
御堂内には肥前狛犬4体が置かれている。以前は熊野神社社殿域に鎮座していたものをこちらに移動してきたという。近年盗難が多く、その対策の為である。
御堂の前にも多くの石塔石仏群が祀られている。
鳥居
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みごとな肥前鳥居。 左右の柱にはびっしりと銘が刻まれている。拓本をとればほぼ全文解読できるだろう。
向って左手の柱に「寛永十六己卯(1639)九月廿日・・・石蔵坊盛久」という銘のみ僅かに読み取れる。
石段〜社殿域
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門前の民家の方のお話によれば、熊野神社は現在は廃社となっているようだ。 石段を登ると、まだ痕跡があると聞き、登ってみた。
石段は50段。途中には廃屋がある。
登りきった所には野仏が4体みられる。 ここから先は石段は無く、獣道状の坂道。
しばらく登ると、石碑・野仏1体・仏堂がある。3体の石仏が祀られている。 周辺には鳥居の額束・石造物の残骸などが散乱している。
作者はここが熊野社の社殿域と思い、引き返したが、Links① を見るとさらに奥に社殿域があり、 「熊野権現」と記された神殿(石祠)があるようだ。
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