仏旗 慈雲山(じうんざん) 報恩寺(ほうおんじ) [報恩禅寺] 曹洞宗  HOUONJI ZEN TEMPLE 有田の古い町並 羅漢 有田光明新四国霊場第16番伊藤氏参拝済

  • 本堂
    本堂 
  • 北側絶壁の羅漢像と石祠
    北側絶壁の羅漢像と石祠 
  • 鐘楼門
    鐘楼門 
住所・電話
〒844-0008 佐賀県西松浦郡有田町稗古場2-8-21 標高:73.2m MAP GMAP 0955-42-2760 
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歴史

伊藤氏メモ当寺は、天文6年1537武雄市北方町に開創されたと伝えられる。 当初は小さな庵寺で、開山禅師に関する記録はなく、開基も戒名が残されているのみである。現在は、伽藍の跡は残っていない。

元禄年間1688-1704、佐賀鍋島藩3代藩主鍋島綱茂が初代藩主勝茂の供養を発願。 勝茂を開基として報恩寺を有田の地に移転改築したと伝えられる。当山境内に隣接する墓地は、それより古くから設けられていたことは、百婆仙(明暦2年1656没)の墓碑があることからも明らかである(墓碑は、長くしだれた藤の花の下にあった)。

慈雲山の山号の由来については確かな記録がない。鐘楼堂に掲げられている「慈雲山」の門額は、黄檗宗の開祖隠元の高弟・木庵性瑫の名筆を刻したものである。多久市西多久町の円通寺の門額も木庵性瑫の揮毫と伝えられている。

明治35年1902の失火により、鐘楼堂のみを残して全山を焼失。これに伴って報恩寺の沿革史の詳細を記録した数々の資料も灰燼に帰した。 大正6年1917、着任した21世住職は、本堂・庫裏の建立を発願し着工。同8年完工した。本堂は、大正2年1913に有田小学校が改築された際に解体された講堂の材木によって建立された。鬼瓦に彫刻してある「學」の文字がそのことを物語っている。

本堂の正面左右には、一対の陶磁器碑が立っており、そこに書かれている文章が、当寺の沿革史を知る手掛かりとなっている。 この陶磁器碑は、名工井手金作の手によって製作された傑作であり、21世住職の書を染め付け、大正14年1925に寄進されたものである。

境内には、鯨の背中に顕彰文を刻した石塔を乗せた碑が立っている。この碑は、有田出身で、江戸末期から明治の初期にかけて長崎を拠点に海外貿易に尽力した実業家・久富子藻の顕彰碑である。 子藻は、有田で製造された陶磁器販売の支店を長崎に開き、西洋諸国との貿易を推進し、商売大いに繁盛したということである。 彼はさらに、長崎港外高島で炭鉱を経営し、そこで採掘した石炭を陶磁器ともども外国に輸出するため、小型帆船に積載して航海した豪商である。 子藻は、志半ばにして40歳でこの世を去ったが、死を前にして、「五大州七つの海を航海するのが夢であった。死後は、屍は海へ流してほしい。長鯨の背にまたがって七つの海を航海するのもまた愉快ではないか」と遺言しており、その遺志に基づいて鯨の石碑を造立してその功績を顕彰したものである。(『慈雲山報恩寺沿革史』より)

現第24世。境内には、他にも有田光明新四国第16番となっている堂宇などもある。また、季節には山裾側に、長くしだれた藤の花を見ることができるなど、見どころも多い寺院である。()

伊藤氏メモ報恩寺には、百婆仙(ひゃくばせん)の法塔がある。百婆仙については、本ページの下部に掲示する。()

ひとくちメモ

本堂は有田小学校の講堂の材木を利用されているというが、廃材とは思えない磨き上げられた渋い色が印象的である。 寺の北側は絶壁となっており、釈迦牟尼仏・羅漢像・石祠などがみられる。

写真

  • 全景
    全景 
  • 本堂
    本堂 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 鐘楼門 - 境内より撮影
    鐘楼門 - 境内より撮影 
  • 鐘楼門前の六地蔵
    鐘楼門前の六地蔵 
  • 鐘楼門の扁額
    鐘楼門の扁額 
  • 陶磁器碑 - 本堂を背にして撮影
    陶磁器碑 - 本堂を背にして撮影 
  • 陶磁器碑 - 本堂を背にして撮影
    陶磁器碑 - 本堂を背にして撮影 
  • 本堂正面の板貼
    本堂正面の板貼 
  • 境内風景 - 本堂を背にして撮影
    境内風景 - 本堂を背にして撮影 
  • 久富子藻の顕彰碑(クジラの像に乗っている)
    久富子藻の顕彰碑(クジラの像に乗っている) 
  • 百婆仙の法塔域
    百婆仙の法塔域 
  • 百婆仙の法塔
    百婆仙の法塔 
  • 北側絶壁の羅漢像
    北側絶壁の羅漢像 
  • 北側絶壁の釈迦牟尼仏と羅漢像
    北側絶壁の釈迦牟尼仏と羅漢像 
  • 北側絶壁への登りの石段(この上には赤い鳥居が垣間見えていた)
    北側絶壁への登りの石段(この上には赤い鳥居が垣間見えていた) 
  • 北側絶壁の全景
    北側絶壁の全景 
  • お堂(「有田光明新四国霊場第16番」と表記されている)
    お堂(「有田光明新四国霊場第16番」と表記されている) 
  • お堂内の祭壇
    お堂内の祭壇 
  • 梵鐘
    梵鐘 
  • 喚鐘
    喚鐘 
  • 参道口
    参道口 

百婆仙について

伊藤氏メモ佐賀新聞(2016.2.26)などに次のような記載がある。()

有田焼創業時、陶祖・李参平と同時期に活躍した一人の朝鮮人女性が実在した。百婆仙と呼ばれ、男性中心であった焼き物史の中で登場する数少ない女性の一人である。後世、「有田陶業の母」として名を残すが、資料や文献は非常に少なく、出生地や本名すらはっきりしない。

百婆仙は文禄・慶長の役で夫の陶工深海宗伝(ふかうみそうでん)とともに、武雄領主の後藤家信に従って肥前の地に着く。 武雄領内の内田村周辺(現・武内町)に窯を築き、宗伝ら陶工たちは製作を始める。茶器や香炉などを家信らに献上した。今も同地に窯跡が残る。

元和4年1618、宗伝は亡くなる。夫の死後も百婆仙は息子らと焼き物製作を続けるが、やがて良質な原料を求め、一族や陶工ら900余人を引き連れ有田を目指す。有田・稗古場(ひえこば)に着いた百婆仙と陶工たちは磁器製作に励んだ。 明暦2年1656、百婆仙は96歳の天寿をまっとうする。

町内にはゆかりの史跡がいくつか残る。墓は泉山・上幸平の共同墓地にあり、稗古場の報恩寺には百婆仙の死後50年、宝永2年1705にひ孫が建てた法塔がある。碑文には百婆仙が大声で笑い、容貌は穏やかで感じが良いなど、偉大な母の人となりが刻まれている。 百婆仙の法塔と並んで深菴宗海居士之塔(子・宗海)と湛丘寄与然禅士之塔(孫・湛丘)が建てられている。

同寺のそばに観音山と呼ばれる小高い土地がある。東側登り口には史跡「稗古場窯跡」がある。 静かなたたずまいで、同窯は百婆仙ゆかりの窯とされる。異国に来て、夫亡き後も陶工らを率いたリーダーとして大きな役割を担った女性の姿が浮かんでくる。 観音山には「金ケ江 深海 祖霊の碑」という小さな祠が、朝鮮の陶工たちの故郷を背にするように建つ。 金ケ江とは李参平一族のことである。 深海の名も併記することから、両家一族が有田で重きをなしていたことが推し量れる。江戸時代、陶工たちは休日などにこの台地に上り、酒宴をしながら故郷へ思いをはせていたという。これが現在の「山のぼり」行事へと続く。

深海一族は、苗字帯刀を許され、その後窯元として繁栄したが、明治維新の折、藩の御用窯であったため閉窯となった。 その後、深海辰治(明治44年生)が陶磁器用絵具製造販売業として深海商店を起業した。

芥川賞作家の村田喜代子は百婆仙をモデルにした『龍秘御天歌 』『百年佳約 』を執筆。平成17年には村田作品を原作に、わらび座がミュージカルを有田町で公演するなど、百婆仙に光が当たる契機になった。

民間レベルで百婆仙を顕彰しようという動きも出ている。日韓百婆仙研究会が平成27年に設立された。 日本側代表を務める久保田均さんは百婆仙を広く知ってもらおうと活動。有田町にギャラリーペクパソン(百婆仙)をオープンし、日韓の女性作家をメーンに紹介している。