名護屋城跡
史跡
★☆☆
伊藤氏参拝済
太閤道(唐津-名護屋)
- 住所・電話
- 〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 標高:88.5m 地図 GMAP
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歴史
関東を平定し、ついに全国統一を果たした豊臣秀吉は、文禄元年(1592)、さらに大陸(明国)に向けて出兵する。 文禄・慶長の役[1]の始まりである。
その軍事拠点として築かれたのが、肥前名護屋城と諸大名の陣屋である。 城は、当時では大阪城に次ぐ巨大な規模(約17万平方メートル/東西約600m,南北約350m)を誇り、天守閣のある 本丸を中心に、二ノ丸・三ノ丸・山里丸などを要所に配置し、 堅固に構えていた。
また、名護屋城を中心とし、周辺には徳川家康をはじめ諸大名の陣屋の総数は120箇所以上に及んでいた。
文禄・慶長の役は韓国では、それぞれ壬辰倭乱(임진왜란)、丁酉再乱(정유재란)と呼ばれ、秀吉の単なる自己満足のために朝鮮に対して歴史的に多大な損害を与えた侵略であったことを忘れてはならない。
ひとくちメモ
以下の項目順に記事を書きます。
写真
築城
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築城は、一般には天正19年(1591)8月頃に決定されて同年10月には九州諸大名[2]を中心に「割普請」が開始されたと想定され[3]、 秀吉が翌年4月25日に着陣する前の2月にはほぼ完成していたとされる。 僅か4〜5カ月でこの巨大な城が完成され、 また120に及ぶ諸大名の陣屋、城下町もほぼ同じスピードで完成されたと考えられる。 秀吉の権力がいかに大きかったかが容易に想像できる。
『肥前名護屋城屏風図』(佐賀県立名護屋美術館蔵)を見ると女郎屋・武家屋敷など城下町のほぼ完全な機能があったと考えられる。[4]
名護屋城築城前より漁業と農業を営む寒村のこの地に住んでいた住民は、さぞかし度肝を抜かれた亊は容易に想像できる。
また、各大名・その家臣達はおそらく単身赴任で、狭い陣屋内での不自由な生活をさっさと終え、 早く国に帰りたかったことであったと思う。同情する。
陣屋
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名護屋の諸大名の陣屋の様子について佐竹氏家臣の平塚滝俊の書状には「岸へハ皆諸国大名衆 御陳取にて候、野も山もあく所なく候」、「家やす、政宗・うき田との・かもう殿・其他西国衆 、甲斐・信濃・加賀・越中・出羽・奥州・其他諸国のくんぜいかきりなく取つ丶けられ候、 左候間、日々ニ小旗・小指物・ほろ・のほり御ちん御ちんにはりたて候間、誠に弥生の比、 山々の花を見渡し候様ニ候」と綴られている。現在、120箇所の陣屋跡の場所が確認され そのうち60箇所が比較的良好な保存状態であることが確認されている。[5]
現地を歩くと、このとおりで陣屋跡が散在ではなく密集している。 国指定特別史跡に指定されているところも多数ある。
『秀吉公名護屋御陳之図二相添候覚書』(九州大学蔵)の内、諸大名等の陣地名部分の翻刻を集計すると 陣屋数:96、要員:251470騎(平均:2619騎)である。 また、これらの兵士とともに、職人・商人・農民もちろん馬なども連れてこられたことであろう。
当時の築城前の人口は知る術はないが、参考までに平成18年度のこの地区(旧鎮西町+旧呼子町)の 人口が12547人[6]である。
『秀吉公名護屋御陳之図二相添候覚書』の数字を鵜呑みにはできないが、「騎」を兵士の数と考えると 平成18年度の人口と考えてもザッと20倍である。
下水道等の設備はおそらく不完全でほとんど垂れ流し状態であったろうから、町の至る所に異臭が漂っていた可能性もある。
名護屋城の破却と再利用
慶長3年(1598)秀吉の死によって慶長の役が収束に向かい名護屋城は出兵拠点としての役割を終わる。 関ヶ原以降名護屋城は唐津領主となった寺沢志摩守広高に管理され、唐津城の築城(慶長7年~慶長13年)によって 建物は移築されたと伝えられている。また、名護屋城の建物の資材は他にも利用されたようであるが詳細は不明である。
その後、江戸時代を通じて名護屋城には唐津藩の遠見番所・古城番所が置かれた。
現在は建物は皆無で、石垣はほとんどの部分が人為的に破壊されている。 破却の時期については元和元年(1615)徳川幕府の一国一城令を契機になされたとか天草・島原の乱の後に寛永15年(1638)春に松平伊豆守信綱が唐津領を検分後に指示したとかの説があるが、はっきりしたことは分かっていない。
広沢寺
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広沢寺は曹洞宗の寺院で、秀吉の私的居住空間のあった名護屋城山里丸の跡地にある。 境内には加藤清正が朝鮮より持ち帰り、秀吉が自ら植えたと言われる巨大な蘇鉄 がある。動乱が近づくと枝葉が枯れると言う言い伝えがある。
年表
佐賀県立名護屋博物館の『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』に記載されている内容を記す。(一部割愛・補注)
年 | 月日 | 事項 | ||
天正13年 (1585) | 7.11 | 羽柴秀吉、関白任官。 | ||
7.25 | 長曽我部元親を降し、四国平定。 | |||
9.3 | 秀吉、家臣の一柳直末に宛てた朱印状で大陸平定に言及。 | |||
天正14年 (1586) | 9.9 | 正親町天皇より「豊臣」姓を下賜される。 | ||
天正15年 (1587) | 5.8 | 島津義久を降ろし九州平定。 | ||
5.9 | 秀吉、「こほ」宛ての書状で「かうらい国」の成敗・博多での城普請を伝える。 | |||
6.7 | 秀吉,博多に凱旋。箱崎の陣屋を本陣として九州諸大名の知行割 を発表。 神屋宗湛、嶋井宗室と共に茶会を催し、 その席で両名が博多の復興を嘆願する。 | |||
6.11 | 秀吉、博多再興を命じる。(「太閤町割」の始まり) 黒田如水孝高を軍奉行に任命し、石田三成、小西行長、長束正家らを従え復興にあたる。 | |||
天正18年 (1590) | 8月 | 7月に北条氏を降ろして奥州を平定[国内統一]。 | ||
天正19年 (1591) | 8.23 | 秀吉近臣の石田正澄(三成の兄)が書状の中で、秀吉が来年3月に「唐」へ出兵するつもりであること・ 名護屋城普請が九州の諸大名に命じられていることを述べる。 | ||
9.3 | 秀吉、壱岐勝本城の築城を命じる。同じころ対馬清水山城の築城を命じる。 | |||
10.10 | 名護屋城普請始まる。 | |||
12.27 | 秀吉、聚楽第を秀次に譲る。 | |||
天正20年 文禄元年 (1592) | 1.5 | 秀吉、朝鮮への出陣を諸大名に命じる。 | ||
3.13 | 秀吉、渡海軍の編成・舟奉行などを定める。 | |||
3.25 | 秀吉、京を出陣し名護屋へ向かう。 この頃までに「河辺川より名護屋まで一里塚」を築くか? | |||
4.12 | 小西行長などの第一軍が釜山に上陸。文禄の役始まる。 | 文禄 の役 | ||
4.25 | 秀吉、筑前深江より海路で名護屋へ着陣する。 | 秀吉の 名護屋 在陣 | ||
4.26 | 秀吉、朝鮮国漢城までの道中に宿泊所の普請を命じる。 | |||
5.25 | 秀吉、大阪城より移築した黄金の茶室にて茶会を催す。 | |||
8.2 | 秀吉、徳川家康・前田利家の諫言により渡海を延期する。 | |||
6.15 | 島津氏家臣の梅北国兼、肥後国左敷にて反乱。のち鎮圧。 | |||
6.30 | 秀吉近臣の山中長俊、波多氏家臣の有浦氏に茶道具借用の礼状を送る。 | |||
7.22 | 大政所危篤の報により、名護屋を発す。 秀吉名護屋離陣中に山里丸築造か? | |||
7.25 | 浅野長政、有浦氏に名護屋城造作(山里丸茶屋か)の用材を求める。 これより先に有浦氏、秀吉を「唐津御茶屋」にてもてなす。 | |||
8.2 | 秀吉、入洛。 | |||
10.1 | 秀吉、再び名護屋に出陣する。 | |||
10.30 | 秀吉、博多にて神屋宗湛宅の茶会に臨む。 | |||
11.1 | 秀吉、名護屋再着陣。 | 秀吉の 名護屋 在陣 | ||
11.8 | 神屋宗湛、名護屋にて秀吉に博多での茶会の礼を述べる。 | |||
11.12 | 秀吉、山里丸に居を移す。 | |||
11.17 | 秀吉、山里丸の茶屋開きに神屋宗湛を招く。 | |||
文禄2年 (1593) | 1月 | 秀吉、この頃より能の稽古を始める。 | ||
2.9 | 秀吉近臣の木下吉隆、秀次の近臣に、近く名護屋城本丸にて能舞台ができるため、 能道具や能面を名護屋に送ることを指示。 | |||
2.14 | 秀吉、在陣の諸大名に人留番所の設置を命じ、兵士の逃亡を禁じる。 | |||
2.14 | 秀次、秀吉に能道具を進上する。 | |||
3.5 | 秀吉、北政所に能を十分覚えたことを告げる。 | |||
4.9 | 秀吉、名護屋城本丸にて能を催す。 | |||
5.1 | 秀吉、大友氏・波多氏などを改易。 波多氏旧領の代官に寺沢広高を任命。 | |||
5.15 | 明の使節謝用梓・徐一貫ら名護屋に到着。 | |||
5.19 | 秀吉、名護屋城にて能を催す。 | |||
6.11 | 秀吉、明の使節を名護屋城に招き、茶会を催す。 | |||
6.23 | 秀吉、明の使節を船遊びに招いてもてなす。 | |||
6.24 | 秀吉、諸大名を召し連れ瓜畑で仮装に興じる。 | |||
6.29 | 明の使節、名護屋を発し、帰国。 | |||
8.3 | 側室淀殿、大阪城にて秀頼を生む。 | |||
8.13 | 秀吉、名護屋城二の丸で四座(観世・金春・金剛・宝生)の能を催す。 | |||
8.14 | 秀吉、秀頼誕生を聞き名護屋城を発し大阪へ向かう。 前田利家・徳永家康などの有力大名、名護屋在陣の東国大名、 朝鮮半島に渡海していた伊達政宗・上杉景勝らも次々に領地に帰る。 | |||
慶長元年 (1596) | 9.2 | 明との交渉決裂。再出兵を命じる。 | 慶長 の役 | |
慶長2年 (1597) | 2.12 | 四国の大名を中心に陣立を定める。6月頃より出兵。 慶長の役始まる。 | ||
慶長3年 (1598) | 8.18 | 秀吉、伏見城にて没する。 以降日本軍、朝鮮半島から撤退開始。 | ||
12.10 | 島津義弘が筑前博多に到着。日本軍撤退完了。 | |||
慶長5年 (1600) | 9.15 | 関ヶ原の戦いが起こる。 | 唐津藩の 番所 設置 | 廃城 ? 破却 |
慶長7年 (1602) | 寺沢広高、この頃唐津城築城を開始。名護屋城の資材を用いたとも。 | |||
慶長8年 (1603) | 2.12 | 徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 | ||
慶長12年 (1607) | 5.6 | 朝鮮国より回答兼刷環使が来訪し、国交回復。 | ||
慶長20年 元和元年 (1615) | 4.6 | 大阪夏の陣がおこる。豊臣氏が滅びる。 | ||
6.13 | 一国一城令が出される。 | |||
元和3年 (1617) | 9.29 | 朝鮮国回答兼刷環使、復路にて呼子へ寄港。 | ||
寛永14年 (1637) | 10.25 | 島原の乱(~寛永15年)。この時期に名護屋城(跡)大きく破壊か? | ||
寛永20年 (1643) | 5.17 | 朝鮮通信使が往路にて名護屋へ寄港。 |
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