瑞鳳山
近松寺
臨済宗南禅寺派
★☆☆
行基
ボタン
砥川石工
伊藤氏参拝済
キリシタン遺物
太閤道(唐津-名護屋)
- 住所・電話
- 〒847-0815 佐賀県唐津市西寺町511 標高:6.7m 地図 GMAP 0955-72-3597 ホームページ
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歴史
近松寺のパンフレットの内容をそのまま引用する。
近松寺の歴史
本尊釋迦牟尼仏 臨済宗南禅寺派 瑞鳳山近松寺と称する。
創立は後二條天皇の乾元元年(1302)と伝えられる。 降りること約240年(天文年間(1532-1555))岸岳城主波多三河守は、博多聖福寺の湖心禅師の高徳を慕い、 当寺の堂宇を再建(唐津城中三ノ丸辺)し、禅師を開祖として迎える。 しかし天正2年(1574)の兵火にあいその後荒廃する。
慶長元年(1596)唐津領主及び長崎奉行の命を受けた寺澤公は、湖心禅師の高弟耳峰禅師の道学兼備なるを聞き、 外国通辞として招請するにおよび、 禅師の近松寺再興の意に順い、 同3年、現在の地に再建され、寺田100石・山林を寺産に充て、菩提寺として篤く帰依される。 しかし第2代堅高公の逝去により寺澤家断絶し当寺も一時荒廃する。 第4世遠室禅師は、徳川家光公に近松寺再興を懇願さる。よって100石の御朱印を賜り旧観に復する。
その後歴代城主は、当寺に帰依されるが中でも文政元年(1818)第6代藩主となられた小笠原公は、 寺田100石を寄進され、菩提寺として深く帰依される。
山門は、慶長3年、寺澤広高公により、名護屋城内の門を移築されたものという。
境内には近松門左衛門の遺骨が納められた墓碑がある。 伊藤氏メモ墓碑傍には、次のような説明書きがある。()
寺内に当寺中高の遠室禅師寿像を所収。尊像の背面に砥川石工・平川与四右衛門(元禄元年(1688)に作像)の銘がある。(Links② より)
近松門左衛門(1653-1725)は、少年の頃、近松寺の4代遠室禅師について得度の後、京都に至り浄瑠璃作家となった。 享保9年(1725)大阪で死去。遺言により当寺に埋葬された。
ひとくちメモ
名護屋城から移築された山門を始め、見どころ満載のお寺である。 特に、松浦山聖観音堂に安置されている観音像は天平年間(729-749)行基の作と伝えられている。
参拝当日、本堂では、宗偏流唐津支部の流祖忌が開催されており、境内には和服姿の善男善女が多数参集されておられた。 和服姿の女性とお寺。なかなか調和のとれた風景を楽しめました。
伊藤氏メモ本堂左手奥にある小笠原記念館は、旧藩主小笠原家の家宝や、歴代唐津藩主の記念文化財を保管しかつ展観する一方、日本の文運推進に貢献した唐津郷土の諸先覚を顕彰するために建設されたものである(入館無料)。()
写真
山門(名護屋城から移築) 山門 - 境内から撮影 山門にあしらわれた三階菱(小笠原家の家紋) 松浦山聖観音堂 松浦山聖観音堂の扁額(明国の渡来僧道本禅師の筆(元禄年間)) 本堂西側庭園 茶室、拈華庵(昭和5年、宗偏流の人々によって再興された。藩主小笠原時代より伝えられている) キリシタン灯籠 - 拈華庵近く キリシタン灯籠 - 拈華庵近く 太閤馬盥(名護屋城から移設されたと伝えられている) 舞鶴園(秀吉に随行した曽呂利新左エ門が唐津湾頭の風景を写して築造したものと伝えられる) - 本堂裏手 近松門左衛門の墓碑 小笠原佐渡守長和の墓地 寺澤兵庫頭堅高(2代藩主)の墓碑 墓所全景 キリシタン灯籠 - 小笠原記念館玄関脇 小笠原記念館 釈迦如来石像(藩主松平2代乗春により建立された) 通用門 門前の風景(右手が近松寺)
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