太閤一里塚
[子宝神社]
神道
☆☆☆
道祖神
太閤道(唐津-名護屋)
歴史
一里塚境内の石碑に刻まれている内容を下に記す。一部判読不能の部分があります。
太閤道一里塚
太閤豊臣秀吉は、朝鮮出兵にあたり肥前国名護屋を前迫基地として天正20年(文禄元年)(1592)4月25日には自ら名護屋城に来て指揮をとりました。そして大阪と連絡のため名護屋城大手門を起点として1里(4km)ごとに早飛脚2名を駐在させ普通□□間かかるところを6日間で連絡させました。
この地は名護屋城の一の城戸にあたる所で第3番目の一里塚にあたります。今から380年前数万の戦国の将兵が佐志の坂を上り名護屋城を目前にして一息ついたところといえます。
江戸時代は唐津と名護屋城を結ぶ名護屋街道となり旅の安全を祈念する庚申塚が建てられました。 この塚は男女のシンボルをその神体としておりそれを再現したものであります。
別称を「子宝神社」としているのは、Links① より。
ひとくちメモ
Links① によると、ここには松の木が植えられていたというが、未確認。
境内は多くの木々で覆われている。 境内には男性・女性のシンボル(「道祖神」と呼ばれるらしい)が多数祀られている。
文禄・慶長の時代にはシンプルに松の木があっただけではないだろうか?
写真
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