護念山
安楽寺
浄土真宗東本願寺派/単立
★☆☆
ソテツ
端坊関連
伊藤氏参拝済
- 住所・電話
- 〒847-0052 佐賀県唐津市呉服町1818 標高:5.4m 地図 GMAP 0955-73-6311
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歴史
Links① (丁寧な言葉遣いでよくまとまっています。ご一読あれ。)によれば、下記のようである。
文禄元年(1592)端坊明然[1]が下国、秀吉の名護屋陣中[2]に一宇を構え、端坊と号した。 明然は、境内に6坊の傍寺を創建。 善海坊・順海坊・了善坊・了休坊・龍泉坊・永元坊である。
明然はその後、寺(端坊)を順了[3]に譲り、本寺に戻る。 慶長元年(1596)、寺澤志摩守は唐津領を与えられ唐津城を築く。 順了も唐津に移り志摩守の懇意により、唐津の町割りの最初に「任意の場所に構う可し」と言われ、現在の地(呉服町)に居を構える。傍寺の6坊も続いて唐津に移る。 その4-5年後、教如上人より木佛と寺号「安楽寺」を賜る。
その後、次第に6坊各寺号を賜る。 善海坊は本勝寺、順海坊は安浄寺、了善坊は行因寺、了休坊は傳明寺[4]、龍泉坊は正圓寺(延宝年間(1673-1681)に西本願寺派に転派)、永元坊(是は還俗し、寺号を没さる)。
堂宇の老朽化に伴い、 15世毛利元臣氏により本堂を現在のコンクリート建築に改築(昭和48年落慶)。 その際、曾呂利新左衛門の築造になる昔の庭園は解体された。 その後、山門・本堂増築、会館建設などを経て現在に至る。 現16世毛利元祐氏。
ひとくちメモ
近代的なコンクリート製の山門をくぐると右手に樹齢400年以上と言われるソテツ、そのまま進めば本堂である。 本堂前はよく手入れされた木々が植えられている。 本堂に向って右脇には曾呂利新左衛門が築堤した時の三石がみられる。 こちら側にも山門がある。
寺東の中町商店街(というかどうかは不明)は活気にあふれている。 老舗と思しき鮮魚店・履物店・御茶屋・食堂それにリヤカーで商う花屋・八百屋などなど多彩である。 作者はこの商店街入口の牟田食堂でちゃんぽんをご馳走になる。 昔ながらのもので懐かしかったです。金500円也。初老の店主の「唐津弁?」も少し聴けました。 ページの最下部に写真を掲載します。
伊藤氏メモ「五福の縁結び通り」と名付けられた寺西側の商店街通りに面した山門は、現在建替え工事の最中である。()
写真
三石
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伊藤氏メモ南側山門を入ってすぐには「曾呂利新左衛門築庭の三石」があり、解説板には次のような記載がある。()
旧本堂の裏に曾呂利新左衛門の築庭と言われた築山があり「蛇石」「蝦蟇石」「泣き石」の三石が配石されていた。 「蛇石」と「蝦蟇石」は互いに睨み合いの姿である。 「泣き石」は太閤秀吉が名護屋在陣中の愛賞石であった。この石は河石で現在は表面の凹凸はすべて磨耗して滑らかで、据付けの良い雅致に富んだものとなっているが、当時は天候が時化る前には凹部分から風が入り啾啾と音を発するので「泣き石」と言われ、その啾声を聞くと朝鮮渡航を差し止めたとの伝えがある。
曾呂利の築庭は現本堂建立の際、配置上の不都合をきたすため、昭和45年(1970)に解体されたが、その後隣接の土地を取得しそこに築庭の名残として「三石」を現在のように配置した。 また樹齢400数十年を過ぎた老松も境内に残っている。
端坊があった場所について
Links① に安楽寺6世住職 鏡空律師智山師(?-1720)の文章に「文禄元年大将軍秀吉公、異國征伐の為、此の地名護屋に陣をおき、その時本願寺より端坊明然師下國して一宇を構え、端坊と号す。今も名護屋汝茜屋町に屋敷跡あり。」という文がある。 この中の「名護屋汝茜屋町」が何処にあるのか気になり、少し調べてみました。
『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』P95、「名護屋城跡・陣跡位置図」によれば、茜屋町は名護屋城のすぐ東側の家康の陣跡の南側一帯を指すようである。 丁度専称寺の周辺と思われる。 専称寺の門前の坂を200mほど登った所に茜屋町公民館があるのを確認した。 この辺りは坂の途中の住宅地となっており、「屋敷跡」は残念ながら確認できなかった(記)。
ちなみに、端坊・安楽寺を庇護した寺澤志摩守の陣はその場所より少し南側にあったようである。かなり近い場所である(直線距離で約500m足らず)。
端坊明然
Links① によれば草野顕之大谷大学教授が本願寺門跡興正寺の山口別院で布教活動をした「明念」と同一人物ではないかと推理されているとの事。少し調べてみました。
松林山端坊 - 萩市仏教会というページがある。 山口県萩市にある、浄土真宗本願寺派松林山端坊の歴史を紹介しているページである。 そこに「明念」に関する記事がある。 内容は概略下記の通りである。
端坊明念は京都興正寺の6坊の一つであった端坊の第10世。 山口市内にあった(現在もある)松林山端坊(現浄土真宗本願寺派)が永禄12年(1569)に大内輝弘の乱の時焼失した為、興正寺端坊を息子に譲り、山口に来てそれを再建。 慶長13(1608)、明然の孫にあたる明善が萩端坊を創建。
この「明念」と名護屋端坊を創建した「明然」。年代的にもさしたる矛盾なく同一人物と考えられる。 だとすると、明念(然)は山口端坊を再建後、名護屋に赴き、名護屋端坊を創建。 かなり忙しい人生を送ったようである。
中町商店街の写真
関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)
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