仏旗 赤水観音(あかみずかんのん) 不詳  AKAMIZU-KANNON 三体の奇南香観音像 唐津街道 鏡山温泉茶屋 美人の湯 鏡山 マリンセンターおさかな村

  • 観音堂
    観音堂 
  • 境内の石仏
    境内の石仏 
住所
〒847-0022 佐賀県唐津市鏡 標高:38.3m MAP GMAP  
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歴史

門前の船繋石脇の案内板の内容をそのまま記載する。

船繋石(ふなつなぎいし)

その昔、神功皇后が三韓に兵船をととのえて出兵された時、 この石に船をつながれたと言う伝えもあるが、 宣化天皇2年537、朝鮮半島に動乱がおき、任那(にな)を救うため勅命により 大伴狭手彦(おおともさでひこ)はこの松浦の地に来て外征の準備をした。 そのおり松浦の長者の娘、佐用姫と恋を語り合う仲となった。 やがて外征に向う狭手彦を鏡山で領布(ひれ)を振って見送った姫は別れのつらさに耐えきれず後を追い呼子の浦の加部島に辿りつきついに石になったという。

松原の沖行く舩をかえれとか ひれふらしけんまつら佐用姫

佐用姫の死を知った狭手彦はこの地に立寄り堂を建て金銅観音菩薩を安置して姫の菩提を弔った。 当時この辺は海岸でこの石に舩を繋いだと伝えられ狭手彦持参の観音像を祀る赤水観音堂はすぐ真上にあり四六時こんこんと真水が湧き出るので閼伽(あか)の水佛前に供える浄水の出る地とて赤水と呼ぶようになった。

観音像は室町期の永和9年1375、僧宗祐(そうゆう)により恵日寺と言う寺院に遷され秘佛として現在の恵日寺に祀られている。 以来この石は湧き出る清水とともに佐用姫物語ゆかりの遺跡として祭られて来た。

行く舩を振り留めかね如何ばかり 恋しくありけむ松浦佐よ姫

唐津ライオンズクラブ

参考:『鏡村史』

ひとくちメモ

参道口は鏡山の麓にある。その脇には船繋石と案内板・観音像などが観られる。 国道202号線の南側の県道40号線沿線である。 その門柱の先の石段を登ると、鏡神社の参道に出る。 参道を横切ると更に石段があり、そこを登ると境内である。 参道口から境内までは昔は道がつながっていたようである。

観音堂内には金色の観音像が安置されている。 屋根には樹木がかぶさり、境内・観音堂はかなり荒れているのが気がかりである。


写真

  • 観音堂の扁額
    観音堂の扁額 
  • 観音堂内の荘厳
    観音堂内の荘厳 
  • 観音堂への石段(右上の赤い物は鏡山神社の巨大な鳥居)
    観音堂への石段(右上の赤い物は鏡山神社の巨大な鳥居) 
  • 門柱(参道口)
    門柱(参道口) 
  • 参道口脇の船繁石
    参道口脇の船繁石 
  • 参道口脇の聖観音像
    参道口脇の聖観音像 

『鏡村史』の内容

赤水観音と大伴狭手彦(おおとものさてひこ)

狭手彦は外征中佐用姫の死を聞き大に力を落とし、 何とかして佐用姫の霊をなぐさめてやりたいと思ひ、 高麗の國王明王にその事を話すと、 丁度高麗では佛教の盛んな時だったので、 佛像を安置して祭ったらよかろうと言って一つの立派な佛像をこしらえてくれた。 欽明天皇の御代539?-571?狭手彦は凱旋の途上此の鏡の里赤水に庵を建てゝ此の像を安置された。 これが金銅観世音菩薩の本体である。 降って後亀山天皇在位:1383-1392天援元年13759月宗■[1]寂門禪師が、附近の山を開いて佛寺(今の恵日寺)を建てゝ佛像を此寺に遷したのである。

今赤水観音の麓に大伴狭手彦船繋石といって、高さ1間周圍6間餘の大石がある。 是彼が凱旋の日此石に船を繋いで船に溜まったあかを繰出したといふ、 しかも此の地には常に鏡山より流るゝ清澄な岩清水が湧いてゐるので、 土地の人稱して赤水と呼ぶに至った。


関連寺院(※過去に関連していた寺院も含みます。必ずしも現在関連している寺院とは限りません。)