heritage 背振山 東門寺跡(とうもんじあと) [背振神社上宮] 天台宗 ★☆☆ 背振千坊 背振神社上宮

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〒842-0203 佐賀県神埼市脊振町服巻   標高:1039.9m 地図 GMAP
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歴史

『背振山系の山岳霊場遺跡資料集』所収の『寺院遺構からみた背振山の平面構造』(寺岡 良(九州歴史資料館))の東門寺・霊仙寺の歴史の項を引用する。脚注・Linkは作者が挿入した。

上宮東門寺は、『背振神社文庫』によれば聖徳太子の発願によるものとあるが、後世の伝承とされている。 また『太宰管内志』には中宮霊仙寺と同様、和銅年中(708-715)に僧湛誉により創建されたとしているため、その創建はおそらく霊仙寺と近似する時間ではないかと考えられる。 そして12世紀以降には、後に播州書写山円教寺に入る性空による再興や、中国から茶を持帰り霊仙寺石上坊にて初めて茶を栽培したという栄西などの、中国から帰国した高僧たちが入山したほど有名な寺院であり、「背振千坊」と称される状況を呈したものと考えられる。

その後、戦国時代の兵乱の中で衰弱していくことになる。 『筑前国続風土記』には東門寺は筑前西油山天福寺[1]の僧との争いにより衰退したと伝えられ、豊臣秀吉の寺領没収により衰亡したのであろう。

近世に入り、霊仙寺水上坊にいた智足坊仁周は、鍋島直茂(1537-1619)の援助を受け、上宮の弁財天の社殿を再興して、肥前に向けて安置し、中宮に十坊を再興、下宮積翠寺跡に修学院を建立して自身が入り、背振山再興を果たしている。また、仁周の後には、五戒坊の玄純もさらに再興に力を尽くしている。

一方上宮東門寺は中世以来、中宮の多聞坊が別当職として上宮へ出仕していたが、近世に入ると建物自体礎石を残すのみとなっていた。 東門寺の本格的な再興の契機となったのは、天和3年(1684)から元禄2年(1692)にわたる筑前肥前国境争いであった。 争論に勝利した肥前側は、政治的な配慮などから中宮の多聞坊が上宮の地に移転し、後に多聞坊は、麓側の一ノ谷、そして現在背振神社のある白蛇堂へと移転している。 そして明治維新を迎え、中宮の乙護法堂を残し、山野に帰している。

上の寺岡の論文によれば、平面構造の調査の結果、山頂から南東に500mほど下った箇所で伽藍・僧坊跡と考えられる平坦面群を26確認した。 その平坦面群の一つには田螺仏(たにしぶつ)と俗称される石仏も確認したという。但し、近世以降の新しいものという。 東門寺の中心部はこのあたりであったのであろう。

参考:『筑前國続風土記』

ひとくちメモ

弁天堂のある山頂への石段の登り口は自衛隊正門脇にある。 そこからやや緩やかに石段が始まっている。 右手に自衛隊のフェンスを見て登る。 途中、フェンス内に役行者像を拝むことができる。 さらに登ると境内である。境内には弁天堂の他、2基の鳥居・休憩所・水盤・多数の石灯籠などが確認できる。

弁天堂は石造り。正面の扉には鍋島花杏葉紋があしらわれている。 扉は施錠されており、弁天様を拝むことはできなかった。 毎年5月3日に開帳される。

当日(2016-05-30 午前9時頃)の天候は快晴。山頂の気温14℃。山頂からの福岡・佐賀の眺望を期待していたが、PM2.5のせいか視界不良で残念であった。

2017-05-03、当日の天気予報は晴れ。弁財天を拝みに念仏4号にて早良区側より山登り。 山頂下の駐車場にバイクを停め石段を登り始める。 予報は大外れ!!空はにわかにかき曇り、雷鳴がなり始める。目線の高さの雷鳴は初めての経験である。 参拝をやめて引き返そうかどうかしばらく思案。 「年に一度のご開帳。この機会を逃すとこの年では目の黒いうちには拝めないかも?」と考え、山頂に登り急ぎ参拝。 大げさかもしれないが、作者からしてみれば命がけの参拝であった。 (他の参拝客や主催者の氏子の方々はこの雷はあまり気にしていないようであった。何故だろう?) 急ぎ石段を下り駐車場へ。その後、少し下のたにし仏の参拝へと向かった。

写真

  • ご開帳された弁天堂
    ご開帳された弁天堂 
  • 三角点と梵字石
    三角点と梵字石 
  • 山頂の標識(何故か佐賀県ではなく福岡県早良区役所と書いてある)
    山頂の標識(何故か佐賀県ではなく福岡県早良区役所と書いてある) 
  • 山頂全景
    山頂全景 
  • 弁天堂
    弁天堂 
  • 弁天堂
    弁天堂 
  • 弁天堂の扉にあしらわれた鍋島花杏葉紋
    弁天堂の扉にあしらわれた鍋島花杏葉紋 
  • 弁天堂脇の盤水
    弁天堂脇の盤水 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 石段
    石段 
  • 参道の石段
    参道の石段 
  • 参道口
    参道口 
  • 参道口脇の自衛隊正門
    参道口脇の自衛隊正門 
  • 山頂の遠景 - 駐車場より撮影
    山頂の遠景 - 駐車場より撮影 
  • 梵字石(周辺に多数の塩がまかれていた)
    梵字石(周辺に多数の塩がまかれていた) 

役行者像

役行者像
役行者像 
役行者像 - 参道の石段から撮影
役行者像 - 参道の石段から撮影 
役行者像 - 参道の石段からフェンス越しに撮影
役行者像 - 参道の石段からフェンス越しに撮影 

台座を含めた大きさが182cm。

台座正面に「(前略)今上皇帝聖壽万歳 大旦那當國主従四位下 兼侍従行松平信濃守藤原朝臣綱茂公[3]卿武運長久子孫繁栄國家安全而巳 元禄十三庚辰(1700)六月七日 建立主 天台衆中・本山派山伏中」銘。 (以上 フェンス脇の案内板(神埼市教育委員会)より)

尊像は自衛隊の敷地内。我々一般人は自衛隊のフェンスの外からしか拝めない。何とかならないものだろうか?


『筑前國続風土記』

背振山(山頂に「上宮」が見える)
背振山(山頂に「上宮」が見える)
『筑前名所図会』

巻の21 早良郡下 背振山の項に山頂の弁才天社に登る時の様子、山頂からの眺めが記載されている。

(前略)山上に神社あり。板屋邑より原野を12・3町(ばかり)行けば林木あり。 又潤水ある、祓川(はらひがわ)と云。御社へ参詣する人、(ここ)にて祓除す。

其潤水ある所より山上に上るに10町許り峻路也。 老弱尫弱(わうじゃく)なる者は、前なる人の帯に取付、後なる者に腰を押されて登る。 板屋より御社まで22・3町許あり。

山上より四方を(うかが)ひ望めば甚広遠也。 秋の頃天気晴朗にして烟靄(えんあい)[2]なき時は、朝鮮國見ゆ。 春月霞多き時と云へ共、曇らざる日は、壱岐対馬まで(よく)見ゆ。 対馬は是より100里あり。

南に望めば、肥前筑後両国、共に眼科に俯してうかがふ。 又肥後、薩摩、日向、豊前の諸山も、連続して見ゆ。(後略)


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