heritage 大心海山(だいしんかいざん) 真正寺(しんしょうじ) [眞正寺] 浄土真宗本願寺派

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〒842-0122 佐賀県神埼市神埼町城原557   標高:22.3m 地図 GMAP 0952-52-2691 
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歴史

伊藤氏メモ勢福寺城(せいふくじじょう)跡の麓にある真正寺。この寺は、永禄2年(1559)に自害した少弐氏最後の当主である少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)の菩提を弔うために、少弐氏重臣西善通とその子教通により建立された。勢福寺城内にあった持仏堂を冬尚の墓に隣接した場所に移し念仏三昧の道場としたことに始まり、現在の真正寺となっている。真正寺にある冬尚の墓は、寺の墓地の場所とは離れており、境内の裏手にある。

元々、少弐氏は、武藤資頼(むとうすけより)(1160-1228)が九州へ下向し、大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼の子の資能(すけよし)の代より、少弐を姓として定常的に用いるようになった(初代少弐氏)。

一時期は豊前・筑前・肥前の守護として現在の福岡県・佐賀県・長崎県にまたがる地域を支配する大大名であった。しかし室町幕府と対立するようになり、幕府の九州探題と衝突。幕府は周防山口の大内氏に九州探題を援けるよう依頼し、少弐対大内の戦いが勃発。応仁の乱(1467-1478)以降中央で活躍し海外貿易などで莫大な富を築き上げた大内氏の前に、少弐氏は敗戦を重ねて大宰府を追われ肥前へと落ちのび、滅亡しかけた16代少弐資元(しょうにすけもと)(1491-1536)は勢福寺城を居城とした。とはいえ、少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏。のち、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時滅亡した。

資元の子・少弐冬尚(17代当主)は後を継ぎ少弐氏を再興、家臣の馬場氏や龍造寺氏の支えで細々と少弐氏の命脈を繋いでいた。後のない冬尚は、家臣の讒言に乗せられ、台頭してきた龍造寺氏と争うようになり、家運は一気に傾いていった。最後には、冬尚は龍造寺隆信に追い詰められ、勢福寺城に籠り何度か撃退したものの、永禄2年(1559)勢福寺城は落城、冬尚は城内で自害した。これにより鎌倉以来続いた名門少弐氏は17代で完全に滅亡した。

なお、真正寺にはかつて八千代桜という樹木があったという。八千代桜の八千代とは、勢福寺城の主・少弐冬尚に仕えた家老の娘の八千代姫にちなんだもの。晴れて許婚(いいなずけ)(かたき)をとった八千代姫は、故人の供養を生涯の勤めと心に決めて、髪を落とし尼寺を結んだ。その庵が、真正寺の前身だともいわれる。八千代姫は、亡き許婚の思い出にと、庵の庭に桜の苗木を手植えしたという。かつてあった八千代桜の由来である。

山号の[大心海]とは、海のように広大な慈悲心を持った仏という意で、阿弥陀如来をさす。(以上、Links①Links⑤ 、及びウィキペディアより)()

ひとくちメモ

未参拝の為、未稿。

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