萬明山
圓通寺
[圓通禅寺・円通寺]
臨済宗南禅寺派
★★★
伊萬里神社
伊藤氏参拝済
肥前州三十三観音霊場第11番
- 住所・電話
- 〒848-0045 佐賀県伊万里市松島町148 標高:23m 地図 GMAP 0955-22-2040
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歴史
以下『伊万里史 本編』の記事の内容である。
同寺の縁起によれば、至徳年間(1384-1386)、領主伊万里中務大輔源貞が武雄町広福寺 第5世直庵玄挙大和尚を請うて開山。 その後、兵火にかかり焼失。 文明年間(1469-1486)、ときの領主宮内小輔源仰により再建。 天正7年(1579)伊万里城没落と同時に再び兵火に遭う。 明治8年、本堂を改築。明治37年3月、六湛大和尚により専門道場が開かれ、 九州四大名刹の一つとして知られ、今も尚修法の格位を保ち女人禁制である。
他に、本尊である「お吉観音縁起」が伝わる。 また安居会という臨済宗南禅寺派の徒弟向けの修行会が毎年7月末頃開催されるという。
伊藤氏メモ明治4年(1871)廃藩置県により、従来の藩はすべて県に改められ、佐賀地方は佐賀県・小城県・蓮池県・鹿島県・唐津県となり、 その他の藩領や幕府領として厳原県(田代・浜崎地方)と長崎県(厳木・大川野地方)が成立した。 また、廃藩と同時に佐賀県は、人心一新や海上交通の利便を理由として、県庁を伊万里に移すことを民部省に願い出て、同年9月、佐賀県庁が伊万里に移され「伊万里県」が成立。 初代権令(県知事)に山岡鉄太郎(鉄舟)が任命され、現在の圓通寺が臨時の県庁と定められた。 その後、明治5年(1872)には、県庁は佐賀へ移転。県名も「佐賀県」に戻った。(『シリーズ藩物語・佐賀藩』より)()
ひとくちメモ
この地区一番の規模の寺である。 境内には本堂・坐禅堂・開山堂の他多数小堂がある。 石碑・石神なども巨大である。 禅寺らしく境内はきちっと掃き清められている。身の引き締まる思いである。 本堂前の砂はあまりにも綺麗に整えられており、砂を乱してはと近づけなかった。 暑い中、門前の道路脇の植え込みの清掃をされていた僧侶の姿が印象的であった。
歴史の項で「女人禁制」とあるが、山門・門前などには特にそういった表示は無い。 ご婦人方が参拝される場合は念の為、要確認である。
門前の道路を挟んだ所には伊萬里神社が鎮座している。 入口の竜宮城のような門は珍しいものである。 (伊万里川は濁って見えたが、これは梅雨の大雨の影響であろう。普段はもっと綺麗な水と思われる。)
伊藤氏メモ屋根部は全体的に明るい茶色を基調とした造り。巨岩の碑・巨像も配されており、墓所も苔があり歴史を感じる。 当寺は雲水のいる修行道場としての役割も果たしている。名刹・古刹の感あり。一度は訪れたいお寺である。()
写真
本堂の扁額と扉 本堂の屋根 山門 山門の扁額 山門の装飾 北側の山門 北側の山門 鐘楼 手水 坐禅堂 坐禅堂内 開山堂(二層構造) - 横から撮影 開山堂の扁額(書体がおもしろい) 石仏群 - 開山堂裏手 石仏群 - 開山堂裏手 石仏群 - 開山堂裏手 石仏群 - 開山堂裏手 門前で作務をする僧侶 石製のテーブルと椅子 お堂 石仏(阿弥陀仏) 地蔵菩薩像 - 山門脇 お堂と石仏 石碑(巨大である) 石碑(巨大である) 石碑(巨大である) 大黒天(巨大である) 布袋(巨大である) 聖観音像 庫裏前のサルスベリ 全景 - 南東方向より撮影 六地蔵 全景 - 北東方向より撮影 梵鐘
伊萬里神社
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