太良岳神社
[太良嶽大権現・太良岳神社上宮]
神仏習合
行基
砥川石工
歴史
和銅2年(709)、行基が多良岳の山頂に太良嶽大権現を祀ったのがこの神社の始まりといわれる。
大同元年(806)-大同2年(807)、弘法大師が行基の遺跡を訪ねて多良岳を登った際、山頂からやや下った場所に金泉寺を神宮寺として建立。(以上 Links① より)
参道口に祀られている役行者像の台座に「正徳ニ壬辰天(1712)十二月吉日」「砥川石佛師 平川与四右衛門」銘がある。(Links② より) ここで平川与四右衛門とは砥川石工の棟梁の名である。
境内には役行者像のほか、六地蔵、野仏などがみられるようだ。
一の鳥居はとてつもなく遠い所にある。当ページの下部に記事を掲示します。
ひとくちメモ
未参拝の為、未稿。
一の鳥居
一の鳥居は当社からみちなりに約13km、直線距離で5.5kmの所にある。当社から見て東南方向だ。 標高差687m!場所はこちら。 湯江宿から多良街道(長崎街道)を登ってくると、この場所で分岐して、直進すれば多良宿、左に曲がって鳥居をくぐれば金泉寺・太良嶽大権現への参道となる。
鳥居脇の石碑の内容を下に記す。
多良海道は佐賀藩主が長崎警固の往き帰り、諫早領主が佐賀藩に努めの往き帰りや一般領民も利用した。
この一の鳥居より多良嶽大権現本宮に向けて参拝したと思われます。
「元禄十四歳次辛巳(1701) 祈願 法師阿闍梨○印 権大僧都○○」 「文政八乙酉歳三月吉日(1825)金泉寺第十五世法印増海」と刻銘されている。
高来町郷土誌には明治7年(1874)8月の台風で倒壊したと記載あり。
何故か柱の一部は60m南南東に一部は40m北に散乱していた。三段目の柱が三本あり貫の穴が違う。 束額が4面有り異常な状態で損壊され一部は土中に埋まっていた。
亀腹だけが移動せず残っていた。
天保9年(1838)の幕府巡見使がこの地で「鹿のとう御休所あり道の左右に鳥居あり」と日記に書き残している。
鳥居に刻銘して有る是成紋兵衛兌祐翁の子孫は近くに3基の鳥居が有ったと聞いているとの話と一致する。
女人禁制の時代は当地の東側に比丘尼堂を建てて女性はこの地より神域に入る事を禁止していたと思われる。
平成25年6月(2013)に散乱していた鳥居の部材を収集し仮組をした。
鳥居は幕府巡見使の日記や安政5年(1858)に描かれた諫早郷絵図に基づき復元した。
貫は存在せず新調した。
平成29年(2017)12月吉日 鳥居復元者 金泉寺第29世住職 有森 隆英
関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)
Links
①太良嶽神社の御朱印情報~多良岳からお引越ししてきた神社~(佐賀県藤津郡太良町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー
②石工「平川与四右衛門」の軌跡 - 全国遺跡報告総覧