仏旗 医王山 豊後国分寺(ぶんごこくぶんじ) [国分寺跡] 天台宗[未]  BUNGO KOKUBUNJI TEMPLE 行基 伊藤氏参拝済 除夜の鐘を撞ける

住所・電話
〒870-0864 大分県大分市国分972 標高:32.8m MAP GMAP 097-549-0757 
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本尊
薬師瑠璃光如来

歴史

伊藤氏メモ

【豊後国分寺薬師堂(金堂跡):案内板より】

国分寺は、奈良時代の天平13年741鎮護国家を願った聖武天皇の詔勅により全国64国の国毎に建てられました。 詔勅によれば『丈六の釈迦如来像と脇侍を造り、大般若経を写させ、七重塔を建立し、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺とし、それぞれに水田10町を与え、僧寺には僧20名を尼寺には尼僧10名を置く』というものでした。

豊後国(大分県)の国分寺はこの地に造立され、金堂講堂食堂そして60mを越える七重塔が建ち並ぶ壮大な建物でした。 しかし、律令制の衰退とともに平安時代後期になると国費による経営は危うくなり衰微していきます。 その後、鎌倉時代大友親秀が西大寺の僧忍性を招いて再興しましたが、天正14年1586島津軍との兵火で消亡したと古記にあります。

江戸時代に入り、天台僧円海による再興の志に始まり、元禄の頃堂宇が再建しました。金堂跡にある薬師堂は元禄7年(1694)の創建で本尊薬師如来を安置し、現在に至っています。

【豊後国分寺跡:案内板より】

国分僧寺で医王山金光明寺と呼ぶ。 天平13年(741)聖武天皇が一切災障消除年穀豊饒を発願して国毎に金光明四天王護国之寺を建て七重塔一基を造り、金光明最勝王経法華経各一部を安置し、封戸50戸、水田10丁、20僧をあてられた。

寺伝では、同年勅により石川民部某が豊後国司とともに僧寺、尼寺等を建て、のち行基を開基としたという。 天平13年は天皇御発願の年で、なお未完成の国が多く、同16年744石川年足等を諸国につかわして寺地を検定し、国郡司を督励して3年以内に完成するよう命令されたほどであり、天平13年完成説は信じ難い。 豊後風土記大分郡条に「寺二所僧寺尼寺」と見え、続紀天平勝宝8年756の条に越後国以下26か国(豊後国を含む)国分寺に灌頂幡一、道場幡三九、緋綱二条を下賜され、今日寺地から奈良時代の(あぶみ)瓦や唐草瓦を出土することなどから見て、756年頃にはほぼ完成していたのであろう。

今日、元の堂塔は廃絶し、金堂跡には後の薬師堂三間四間、塔跡には観音堂三間三面が建てられている。 金堂跡の上壇はなくなり10数個の原礎石(造り出しあり)を残すが、薬師堂建設のとき、原位置を移動したため原形を復原しえないことは遺憾である。

しかし、塔跡には土壇を存し、中心礎石及びその他の礎石も大部分原位置を残存する。中心礎石は観音堂床下にあり、東西長径2.1m余、中央部に心柱の乗る高さ14.5cm、直径76cmの造り出しがある。 周囲の礎石は9個現存し(3個欠)、柱の心の位置が不明であるがほぼ12m四方となるゆえ四間四面であったと思われる。やはり奈良時代の様式(東大寺式)と解すべきであろう。 全国的に見てもこのような巨大な塔はまれで、おそらく続紀記載のとおり七重塔婆一基とある詔によるもので、 奈良時代の伽藍配置では東大寺や薬師寺等の東西両塔の内の西塔に当る訳であるが、それらしい痕跡がないので、本来西塔だけしか建立しなかったものと思われる。(国指定史跡 昭和8年2月28日)

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ひとくちメモ

伊藤氏メモ 昨年2014の暮れ、12月31日に実家近在の豊後国分寺に行ってきましたので、情報を送付いたします。(単発物ですので、「伊藤めぐり記」への記載はいかがかと思っています。豊後国分寺のページを新たに設けていただければ、ありがたく思います)。

かつての豊後国分寺の跡はかなり広い敷地ですが、きれいに整備され、豊後国分寺跡史跡公園となっています。 大宰府政庁跡のような敷地の様相です。 敷地内には大分市歴史資料館(入館料200円)が設置されています。 その敷地の木々に囲まれた一画に、現在の豊後国分寺が静かに佇んでいます。 古くからの歴史を感じる、ある意味すこぶるお寺らしいお寺です。 本尊薬師如来はかなり大きな像で、脇侍と合わせ相当の歴史を感じるさせるものです。 ()