泥洹山
浄安寺
浄土宗
伊藤氏参拝済
歴史
伊藤氏メモ明暦4年(1658)から明治4年(1871)の廃藩置県まで、 10代200年以上にわたり豊後府内藩を治めた大給松平家の菩提寺。 現住職は第26世。
十八松平の一つである大給松平家の始祖は乗元である。 彼は松平宗家4代親忠の二男で、三河加茂郡大給(現:愛知県豊田市)に居住し、大給松平を称したとされている。 大給松平家は宗家との関係が深く、江戸時代には譜代大名四家のほか、多くの旗本を出した。
その大名家の一つが府内藩主大給松平家である。府内藩大給松平家の始祖近正は、天文16年(1547)、 三河増之沢で生まれた。
はじめは大給宗家5代真乗の長男家乗の家老を務めた。 天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、家乗に代わって、織田信雄・徳川家康方として出陣。 天正13年(1585)徳川家康の重臣でこの年豊臣秀吉に寝返った石川数正が、近正に秀吉方への寝返りを誘ってきた。 近正はこれを拒絶し、すぐに岡崎の家康のもとに嫡男一生を人質として送り、忠義を守った。
近正の最期は、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる伏見城の戦いで、伏見城の松の丸を守っていたが、城陥落の際に戦死した。
近正の嫡男一生は、父の戦死により家督を相続した。そして父の戦功により加増を受け、上野国三蔵5500石から10000石の譜代大名となって、下野国都賀郡板橋(現:栃木県日光市)に入り板橋藩を立藩した。 このとき、一生は亡父近正の冥福を祈って、浄安寺を板橋藩内に創建した。
その後、父一生の遺領を相続した成重は、元和3年(1617)、10000石を加増され三河国幡豆郡西尾城(現:愛知県西尾市)に移った。 その後、成重は、元和7年(1621)に丹波国桑田郡亀山城(現:京都府亀山市)を賜り、2200石を加増され22200石を領した。
成重の二男として江戸で生まれた忠昭は、兄が寛永8年(1631)16歳の若さで亡くなったため、家督を継ぐことになった。 寛永10年(1633)、父成重が亡くなり、その遺領である亀山藩領22200石を継いだ。 寛永11年(1634)、忠昭は亀山から豊後国内に同じ石高で移封され、速水郡亀川村(現:別府市)に仮の居を構えた。 その場所は、現在の信行寺(別府市亀川四ノ湯町23-2)の付近であったといわれている。
その後、寛永12年(1635)には、亀川の居館を引き払って、大分郡中都留村(現:大分市今都留3丁目)へ移転し、菩提寺の浄安寺や祈祷所の福寿院を丹波亀山から中都留へ移した。 この二つの寺院は、その後も忠昭に従って移転している。
寛永19年(1642)、忠昭は中都留から、さらに東の高松村(現:大分市)に移った。 居館が設けられた場所は現在の日岡小学校(大分市日岡2-2-1)辺りで、その後は高松代官所となった。 忠昭は中都留村にあった菩提寺の浄安寺や祈祷所の福寿院も高松村に移している。
明暦4年(1658)、忠昭に対して府内移封の命令が発せられ、府内城(現:大分市荷揚町)に入った。 こうして大給松平氏による10代200年以上の府内支配の時代が始まった。
浄安寺は、万治2年(1659)以降は、府内城三の丸(現:大分銀行本店付近)にあった。江戸時代は、国元で亡くなった初代忠昭・2代近陣・9代近信の霊廟があった。 戦後、現在地に移転。その際、4代近貞の墓のみが境内に移された。 浄安寺にあった墓の一部は、戦後浄安寺墓苑(上野墓地公園内)に移された。大給松平家合葬墓に加え、3代近禎・5代近形・7代近義・8代近訓の墓が建つ。
福寿院は、江戸時代は三の丸東側(現:大分県庁舎新館付近)にあった。明治3年(1870)、現在地(大分市荷揚町)に移転した。
(『府内藩 (シリーズ藩物語) 』などより)()
ひとくちメモ
伊藤氏メモ府内城跡の北西に位置する。歴史ある寺院も現在では3階建てコンクリート造。来訪者が相当多いのであろう。本堂前は、白いラインで仕切られた広い駐車場となっており、100台近くは駐車できそうである。()
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