城慶山
正行寺
真宗大谷派
★☆☆
本堂
山門
鐘楼
袖塀
- 住所・電話
- 〒871-0162 大分県中津市永添1148-1 標高:26.9m 地図 GMAP 0979-22-2304
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歴史
妙玄による創建。妙玄は元、末弘城主で俗名は対馬守正行。数十ケ村を領していたが、天正7年(1579)宇都宮一族の野中鎮兼に責められ、剃髪して妙玄と改めた。剃髪後、城跡に寺を建て、俗名の「正行」にちなんで城慶山正行寺と号した。
その後、雲華上人(1773-1850)が中興。往時は4ケ寺の子坊・9ケ寺の掛所[1]を擁していた。 『両豊記・宇佐郡記』では「・・・現在の堂宇は傑僧雲華上人の再建にして宏麗雄偉なり。境内広く庭内には老梅老桜あり。周囲は林木を以て蔽はれ頗る幽趣に富めり。支坊に正信坊・円琳寺・唯専寺・浄澄寺あり。檀徒1800戸を有し地方における東派の重鎮たり」と賞賛されている。(以上、正行寺のパンフレット・門前の案内板より)
本堂、山門、鐘楼、袖塀(いずれも江戸末期)は国指定文化財(登録有形文化財)。
本尊阿弥陀如来像は豊後国玖珠郡野上村(現九重町)寺田の国清寺の本尊。同寺が廃寺となったため、正徳3年(1713)に当寺に迎えられた。(以上、正行寺のパンフレットより)
本ページの下部に雲華上人について記しています。
ひとくちメモ
本堂・庫裡の規模は当寺屈指である。 「奥平公御成の間」「頼山陽の間」は庫裡の中にあり、当時のまま保存されているという。
2020-10-04、中津市内のお寺を参拝後、市内の宿に向かう途中、偶然当寺の前を通りかかる。 門前から中を覗くと、本堂の大きさが並ではない。時計を見ると17:30過をぎている。 とりあえず本堂にだけ参拝しようと思い、参道を歩いていると、「無断で入山禁止。入山する場合は許可を得て」(そのままの文言ではありません)の立て札があった。時間も遅いし、参拝は出来ないかとも思うが諦めきれず、庫裡の通用口のベルを鳴らす。 住職が出てこられ、「本堂は開けてあるのでどうぞお参り下さい」と言って下さった。ついている! 本堂の阿弥陀如来の前でしばし念仏。すると、坊守さんが来られ、お寺の歴史などをお話していただいた。 庫裡内にも案内して頂き、「奥平公御成の間」「頼山陽の間」も見学させて頂いた。 帰り際、住職が山門を閉めにこられ、またここで山門の袖壁・鐘楼の構造のお話等を丁寧に話して下さった。 感謝感謝。
写真は、10月初旬の夕刻6時頃撮影したため、暗く写っています。
写真
本堂の荘厳 外陣と内陣の間の欄間(坊守さんのお気に入り) 外陣と内陣の間の欄間(坊守さんのお気に入り) 石灯籠(文政5年銘) 山門 山門の袖壁(5本の白線は格式の高さを示すという) 南側の山門 - 境内より撮影 境内風景 - 本堂を背にして撮影 本堂前のソテツ 参道口 門前の風景(左手が正行寺) 梵鐘 喚鐘
雲華上人
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1773-1850。俗名は末弘大含。竹田市満徳寺13世の子。
当寺の住職・皆往院頓慧(鳳嶺)に子供が無かった為、大含(雲華)は後継者として養子としてやって来た。ちなみに皆往院頓慧の妻は満徳寺13世の次女。大含(雲華)の姉にあたる。雲華は皆往院の次代住職となる。
雲華は京都に遊学し、東本願寺の学頭にまでなる。詩歌・書・水墨画にも親しみ、頼山陽・田能村竹田(画家)・篠崎小竹(儒学者)、他多数の文人・墨客・医師らとも交友をもった。 文政元年(1818)正行寺を訪れた山陽を山国川の奇嚴怪石の風景に案内。山陽はその光景に感動し、耶馬渓と名付け、写生帳と絶句8首を作り、耶馬渓を全国に知らしめた。 中津藩主・奥平氏も度々正行寺を訪れ、雲華と談笑したという。
享年78才。正行寺の裏城屋敷の丘に眠っている。(以上、正行寺のパンフレット・坊守さんのお話より)
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