heritage 龍穏山(りゅうおんざん) 安全寺(あんぜんじ) [安全禅寺] 曹洞宗 ★☆☆ 即非如一 伊藤氏参拝済

住所・電話
〒871-0097 大分県中津市下正路457   標高:5.9m 地図 GMAP 0979-22-1787 
検索
同地区同宗派(19)  ( 4km以内 )  関連ページ(2) MAP  周辺のスポット(10)  Links(2)  イベント

歴史

伊藤氏メモ創建のときは、涼雲寺と称していた。天正15年(1587)黒田孝高が入国し堂宇を建立、寺領2町歩を授けられたと伝えられている。

慶長5年(1600)、黒田氏が筑前に去った後、細川忠興が入国し安全寺と改称、禅一国師国嵬宗珍大和尚を開祖とする。

山号「龍穏山」の額面は、黄檗宗即非和尚[1]の題字で有名である。かつては、末寺12か寺を持ち、小本寺地方録司の寺格であった。堂内に通称「なで仏(びんづる尊者)」の像がある。

 (門前の案内板より)()

住職のお話によれば、当寺は北隣の闇無浜神社(くらなしはまじんじゃ)(旧社号:豊日別宮)の別当的な存在であったようである。 闇無浜神社の鳥居の前には、小さな港がある。その脇の案内板によれば、この港は藩政時代「御船寄」又は「御船入れ」と呼ばれ、藩主参勤の御座船(「朝陽丸(ちょうようまる)」)や随行する御用船の係留港であったという。

ひとくちメモ

山門前には左右8基の大きな墓碑が並んでいる。 山門をくぐると正面が本堂。右手に二層式の鐘楼がある。 この鐘楼は遠くからもよく見える。 本堂に向かって右手は広大な墓地となっている。

境内を散策していると、住職が出てこられ墓地に埋葬されている幕末・明治初期のご当地の名士達の説明を丁寧にして下さった。中には福沢諭吉の家のそばに住んでいた人の説明もあった。日本史赤点の作者、お話になかなかついて行けなかった。 もう少し勉強していればよかったとつくづく思う。 (詳しくはLinks①Links② をご覧ください。) 住職の話の終わりにお隣の闇無浜神社と当寺の関係の説明もして下さった。 感謝感謝である。

北隣の闇無浜神社境内は枝ぶりの良い松・万葉歌碑などがありなかなかの趣である。 「御船寄」も昔の風情が感じられる場所である。 「なで仏」は未確認。残念無念。中津市のお寺はこの寺が最初の参拝である。

伊藤氏メモ山門入って左側に大きな石碑が立っているのが目を引く。嘉永5年(1852)中津藩の下級武士の子として生まれ、のち更生保護事業の創始者となった川村矯一郎(かわむらきょういちろう)の顕彰碑である。本堂前には大きなクスノキ、鐘楼前にはこれもまた大きなイチョウの木が立つ。山門前の左右両脇に4基ずつ並ぶ大きな墓碑は、奥平家ゆかりの奥方や子息たちのものである。以前は墓地にあったという。 (2019-10-26)

イベント情報(今日から1年間)

○主催者などに事前に確認の上、参加下さい○

日時内容備考状態
2023-12-31()〜2024-01-01(月)除夜の鐘お寺にお問い合わせください。確定

写真

  • 本堂の扁額(即非和尚の書かどうかは未確認)
    本堂の扁額(即非和尚の書かどうかは未確認) 
  • 鐘楼(二層式)
    鐘楼(二層式) 
  • 地蔵菩薩像
    地蔵菩薩像 
  • 石祠・石塔・石仏
    石祠・石塔・石仏 
  • 門前の墓碑
    門前の墓碑 
  • 門前の墓碑
    門前の墓碑 
  • 「御船寄」
    「御船寄」 
  • 闇無浜神社
    闇無浜神社 
  • 万葉歌碑 - 闇無浜神社境内
    万葉歌碑 - 闇無浜神社境内 
  • 藩政期の地図(闇無浜神社・安全寺・「御船寄」がほぼ現在の位置関係で描かれている) - 案内板(中津市・中津の郷土史を守る会)より抜粋
    藩政期の地図(闇無浜神社・安全寺・「御船寄」がほぼ現在の位置関係で描かれている) - 案内板(中津市・中津の郷土史を守る会)より抜粋 
  • 梵鐘
    梵鐘 

関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)

周辺のスポット(4km以内)

周辺の寺院・仏教施設・他のページは当ページの上部の検索の項の「4km以内」のボタンをご利用下さい。

脚注