常忠寺
仏教礼拝所
大野川流域二十八ヶ所不動霊場第12番
歴史
境内の案内板の内容を下に記す。
町指定史跡常忠寺の由来
大友氏初代能直は、建久7年(1196)豊後の地頭職に補任せられ、 大野九郎泰基の反航戦の後、藤北に下向したといわれ、当地は能直と妻深妙およびその子孫が地頭職ならびに所領の管轄にあたった由緒の深い地域であることから境内の大五輪塔は能直の墓であると伝えられてきた[1]。
なお深妙の墓堂もこの地にあり、その勤行を営む泊寺と供養のために風早東西阿弥陀堂が建立されていたと伝えられ、とまりごう、お東、お西の地名が常忠寺の近くに残っている。
後世におよんで戸次氏の菩提所となり、境内の印塔や五輪塔が僅かにその面影をとどめている。 天正14年(1586)薩摩郡豊後侵入に際し、鎧ケ嶽城主戸次総常は一族と共に戸次香春において迎え撃ち戦死。 能直公の墓側に葬られてある。 また、鎧ケ嶽城出身の戸次鑑連こと柳川藩主立花道雪は、初陣以来37度の大戦に一度も敗れたことがない文武兼備の武将であった。 その重臣は道雪とともに柳川藩に移り住み、当地との交流は深かった。
常忠寺の文化財
- 大友能直公位牌「勝光寺殿豊州能連大禅定門」
- 戸次統常公位牌「常忠寺殿節宗義圓大居士」
- 大友能直公の墓と称せられている五輪塔
- 元亀・天正時代の宝篋印塔
- 大友能直公600年忌石碑 柳川藩書紀碑文
- 不動明王座像
ひとくちメモ
未参拝の為、未稿。