中宮山
悟真寺
[悟真禅寺]
曹洞宗
★☆☆
懐良親王の菩提所
歴史
Linksのページによれば、征西大将軍懐良親王の菩提寺。肥後守菊池武朝が後征西大将軍良成親王の命を受け創建した。懐良親王の法名「悟真大禅定門」から、寺号を悟真寺とし、元中7年(1390)に現在の御墓前に諸堂が落成。
小西氏の時代に破却にあい、加藤氏の時代に現在地に再興されたと伝えられる。 境内には親王御真筆の御両親の御霊牌(市指定文化財)を安置する御霊殿があるという。
境内の案内板の内容を下に記す。
悟真寺
1160(永暦元)年の妙見中宮創建後、懐良親王も参籠した天台宗の神宮寺・護神寺が創建。 1390(元中7)年、良成親王の命により菊池武朝が懐良親王の御墓と菩提所・悟真寺を護神寺に創建。 曹洞宗に改宗。 戦国期には末寺80余寺を数える大寺に発展。 相良為続代に七堂伽藍を再建。 当時の三重塔の心礎が御墓前に残る。 1602(慶長7)年、現在地に復興し、本堂などを再建。
1887(明治20)年、老朽化した本堂を解体し、古部材で本堂を改築。 装飾のない住宅風の堂である。 門は四脚門。 吹放し鐘楼は宋の悟真寺由来の鐘を吊る。
御霊殿は懐良親王御自筆の後醍醐天皇、霊照院禅定尼の点々とした位牌を安置するため、 1921(大正10)年建設。 設計は近代建築家で建築史研究の第一人者・伊東忠太。 神社木造論を主張し明治神宮を設計した同時期の作品。 独創的な寺院建築と、没個性の古式に則った神社建築を設計した氏は、当寺の質実な和様、 近代的な幾何学性、唯一装飾的な禅宗様木鼻で構成した。 三間四方の入母屋平入向拝つき、 銅板葺で、組物は隅備を除き平三斗。 円柱に頭貫、内法長押、連子窓、 腰長押、切目長押の構成。 中備は間斗束。 内部は小天井のある折上格天井で、柱に挿した枠肘木が回縁を受ける。
熊本高等専門学校「八代たてものマップ」プロジェクトチーム
ひとくちメモ
寺は山の中腹にある。水無川沿いの県道155号線脇の参道口より坂道。 途中、地蔵堂がありそこで、道が二手に別れる。右側は遊歩道の登り口、左側が寺への参道である。 ここより石段。段数は数えていないが、山門にたどり着くと汗だく。
境内はイチョウを初め、多数の高木に囲まれてしっとりとした味わい。 山門はどっしりとした造りでである。 鐘楼に掛けられた中国宋代の梵鐘は風格満点。
懐良親王の御墓は、参道口の前の県道155号線を道なりに100mほど登った所にある。 乗用車でも横付け可能。 このことは、福岡に戻ってから知った。 作者は、山中にあると勘違い、八代に行く前から参拝を諦めていた。痛恨の極み。
写真
参道途中の地蔵堂(左にのぼれば悟真寺、右の道は遊歩道) 地蔵菩薩 - 地蔵堂内 鐘楼 石造五重塔 六体の地蔵菩薩が刻まれた灯籠 - 本堂前 六体の観音菩薩が刻まれた灯籠 - 本堂前 六体の観音菩薩が刻まれた灯籠(拡大) 境内風景(正面は山門。両脇の大木はイチョウ) ギンナンの実 山門 - 境内より撮影 参道(八代市内の町並みが写真中央に見える) - 山門を背にして撮影 参道(白い手すりの左側は石段) 参道途中の畑のバンペイユ 境内のワンちゃん 境内のワンちゃん 門前の水無川
宋の悟真寺由来の鐘
梵鐘は中国宋(926-1279)代のものという。 その縁起について、鐘楼の脇に案内板がある。 内容を記す。
悟真寺鐘の由来
中国宋時代に金山の悟真寺が、ある時火災にあい、山僧たちが消火に当たりましたが中々消えないのです。 八代の悟真寺では、隣国同名寺の火災を逸早く感得した開山大原孚芳禅師が当寺懐良親王の御墓前にあった本堂に端座し一心不乱に祈祷し、衆僧を指揮して泉水(妙見神の水)の水を汲み出させました。 中国の火災現場には不思議にも「中宮山悟真寺」の旗を靡かせた衆僧たちが幾度となく水をかけ消火した結果沈火しました。
その後、この事を知った中国の寺から返礼に姉妹の華鯨(美しい釣の鐘)が贈られ、その途中に竜宮神がこの鐘を欲しがられた為、 海が大荒れ一つは三角港に沈んでしまいました。 残りの鐘はやっと着きましたが、竜神の火は毎晩のように門前の老松に点ってほしがったのです。 この松を竜燈の松と呼びました。
江戸時代に大旱魃に見舞われ、悟真寺でも雨乞いの祈祷をしていた所、大原孚芳和尚が姿を現わし「山僧雨を祈らんと欲せば鐘をおろして中宮川(門前の水無川のこと)の淵に沈め、雨を八大竜王に乞うべし。」と告げて消えました。 早速淵に鐘をつけて祈祷を行ったところ見事に降雨がありました。 これからこの淵を鐘が淵、俗にカンゾー淵とよぶようになりました。
今は除夜の鐘が毎年衝かれています。
平成26年4月吉日 中宮山悟真寺
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