heritage 岩殿山 雲巌寺(うんがんじ) [岩戸観音・雲巌禅寺] 曹洞宗 ★★★ 羅漢 行基 砥川石工 九州西国霊場第14番札所 百八観音霊場第89番札所 肥後三十三観音霊場第20番札所

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〒861-5282 熊本県熊本市西区松尾町平山589番地   標高:184.4m 地図 GMAP ‎096-329-8854 
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歴史

行基自ら敬刻の馬頭観音を安置したことに始まると伝えられ、 その後、中国寧波より来朝した東陵■璵(とうりょうりよ)[1](1365年没)により建立された。

寛永17年(1640)剣豪宮本武蔵が、藩主細川忠利の求めに応じて細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し忠利候の命をうけ「兵法35箇条」を献上した。寛永20年(1643)から2年間この洞窟内で坐禅したとされ、有名な『五輪書』はここでまとめられたといわれる。 本堂の西の岸壁には五百羅漢が並び、また、奥の院の霊巖洞内には石体四面の馬頭観音像が安置されている。 寺内に所蔵されている禅師倚像は国の重文に指定されている。(以上 雲巌寺のお寺で配られている『霊厳洞物語』他より)

(五百羅漢は塩田石工作という情報もあるが未確認。)

ひとくちメモ

寺の裏手には金峰山がそびえ、門前にはのどかな田園風景が広がっている。

寺の前には一対の仁王像が立ち、石段を登れば、すぐ左手にイチョウの大木がある。 その先が本堂である。 本堂に向って左手に霊厳洞入口がある。入口の脇には宝物殿がある。そこから200mほどほぼ平坦な参道を進めば霊厳洞がある。霊厳洞への参道の崖には五百羅漢がみられる。 場所は未確認だが境内に釈迦如来・脇士と十六羅漢が祀られているようだ。

仁王門を出て参道沿いに100m足らずの所には能「桧垣」ゆかりの山下庵跡がある。

写真

  • 本堂
    本堂 
  • 本堂
    本堂 
  • 霊厳洞
    霊厳洞 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 観音堂 - 霊厳洞の参道口
    観音堂 - 霊厳洞の参道口 
  • 祭壇 - 観音堂内
    祭壇 - 観音堂内 
  • 石段
    石段 
  • 仁王像
    仁王像 
  • 門前の風景
    門前の風景 
  • 門前の風景(赤矢印の先に山下庵)
    門前の風景(赤矢印の先に山下庵) 
  • 喚鐘
    喚鐘 

霊厳洞入口-宝物殿

霊厳洞入口
霊厳洞入口 
巌流島で武蔵が使用したと伝わる木刀 - 霊厳洞入口の宝物殿
巌流島で武蔵が使用したと伝わる木刀 - 霊厳洞入口の宝物殿 
五輪之書(写本)- 霊厳洞入口の宝物殿
五輪之書(写本)- 霊厳洞入口の宝物殿 

霊厳洞の入口で拝観料(200円か300円だったと記憶する)を納める。 入場門を入るとすぐ左手に宝物殿がある。

建物内には巌流島で武蔵が使用したと伝わる木刀・五輪之書(写本)などが展示されている。


霊厳洞参道-五百羅漢他

延命地蔵尊 - 霊厳洞に向かう参道途中
延命地蔵尊 - 霊厳洞に向かう参道途中 
閻魔堂 - 霊厳洞に向かう参道途中
閻魔堂 - 霊厳洞に向かう参道途中 
閻魔大王 - 閻魔堂
閻魔大王 - 閻魔堂 
羅漢像
羅漢像 
羅漢像群
羅漢像群 
霊厳洞に向かう参道途中の観音菩薩
霊厳洞に向かう参道途中の観音菩薩 

入口に近い順に延命地蔵尊・閻魔堂がある。 参道を通して右側の崖には多数の羅漢像(五百羅漢)がみられる。

石碑によれば、熊本の上人淵田屋儀平の願により安寧8年(1779)から享和2年(1802)まで24年間かかって奉納されたと言われている。風雨・自然崩壊・明治の廃仏毀釈・地震などで完全なものは約半数に減っている。

雲巌寺の五百羅漢|画像に多数の画像を掲示している。


霊厳洞

霊厳洞
霊厳洞 
祭壇 - 霊厳洞内
祭壇 - 霊厳洞内 
祭壇内の祭壇(この中に馬頭観音が祀られているようだ。ピンぼけすみません) - 霊厳洞内
祭壇内の祭壇(この中に馬頭観音が祀られているようだ。ピンぼけすみません) - 霊厳洞内 
船頭石 - 霊厳洞内
船頭石 - 霊厳洞内 
逆修碑(脇に石技があり「細川家家老沢村大学・戦国時代の武将塔鹿子木寂心2銘の逆修碑がある」とあるが、この2名のうちどちらのものかは不詳) - 霊厳洞内
逆修碑(脇に石技があり「細川家家老沢村大学・戦国時代の武将塔鹿子木寂心2銘の逆修碑がある」とあるが、この2名のうちどちらのものかは不詳) - 霊厳洞内 

当霊厳洞に祀られている仏像は4面の石造馬頭観音菩薩。 秘仏。 この観音菩薩像は、「むかし、いずれの年にや、異国より渡れり」その渡海の時に船頭が船の操作を誤り、船は沈没したが、観音像は舟板に乗って沈む事がなく、この洞窟の方に流れ着いたとされる。

洞窟の中の大石は「船頭石」といわれ、操作を誤った船頭が、観音菩薩の前にその過ちを悔い、遂に石になったものと伝わる。

宮本武蔵は『五輪の書』の巻頭でこう記している。「・・・寛永20年(1643)10月上旬の(ころ)九州肥後地岩戸山に登り、天を拝し、仏前にむかひ・・・天道と観世音を鏡として、10月10日の夜、寅の一てんに筆をとって書初るもの也」

武蔵は2年後に没した。1年以上この洞窟に籠っていたのだろう。(以上 お寺で配られている『霊厳洞物語』より)


釈迦如来・脇士と十六羅漢

釋迦三尊像とその周辺に十六羅漢が祀られている。 結珈訣坐に禅定印を結んだ釈迦如来像の台座正面に「(前略)宝永五次戊子(1708)十一月厳殿山慈門代」銘。 十六羅漢像には石碑が添えられており、「(前略)平川与四右衛門・平川市五郎 同鐫。 歳在戊子寶永五鮎年(1708)成道日(後略)」銘がある。

ここで、平川与四右衛門とは戸川石工の棟梁の名。平川市五郎とは、与四右衛門の弟子と思われる。

十六羅漠像は宝永年間、龍海慈門和尚がその造立を思い立ち、まずそのうちの一体の制作を石工に依頼した。そのことが世間に広まり、寄進を申し出る人が次々あって、宝永5年に完成したと伝えられている。(以上 Links③ より)


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