仏旗 無漏山素呂院 西福寺(さいふくじ) 浄土宗  SAIFUKUJI TEMPLE 伊藤氏参拝済

  • 本堂
    本堂 
  • 後藤又兵衛基次霊塔 - 山門に向かって右手の白塀の内
    後藤又兵衛基次霊塔 - 山門に向かって右手の白塀の内 
  • 参道口
    参道口 
住所・電話
〒824-0018 福岡県行橋市今井1833 標高:4.7m MAP GMAP 0930-22-1321 
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歴史

Linksのページによれば、天徳2年953空也上人の創建。 大永7年1527、兵火の為焼失。 天文年間1532-1555、勢音が中興して今の地に移る。 弘治3年1557春、堂宇を再建して無漏山素呂院西福寺と称した。 2世寂譽円廓上人の時、後藤又兵衛基次が来寺、暫く潜滞する。 当寺より大阪城入城の為出帆の折、門前の大石より船に乗った。 24世棲譽鳳林上人代には山崎弁栄上人が巡錫の途中暫く滞在する。 私財を(なげう)ち新田開発に取り組み、社会に多大の貢献をした奥清右衛門の墓碑があるという。 又兵衛の当寺潜滞については、下記の門前の案内板の内容をご覧ください。

西福寺と後藤又兵衛

後藤又兵衛は黒田官兵衛長政父子に仕え槍の名手とうたわれた名将です。 関ヶ原の戦いの功で長政が福岡52万石に増封されたとき、又兵衛も16000石を得て大隈城(増冨城 嘉麻市)の城主を務めました。

官兵衛の没後、長政との関係が悪化し、慶長11年16063月に豊前小倉藩の細川忠興を頼って福岡藩から出奔してきました。

西福寺の縁起には「慶長年間後藤又兵衛基次来寺、暫く潜滞す」とあり、 忠興が又兵衛を小倉の城下を避けて目立たないこの寺に匿ったものと思われます。

寺には又兵衛が使ったとされる漆塗の膳が寺宝として伝わり、隣の沓尾村の守田家には又兵衛の槍が伝えられています。 当時、西福寺は小倉藩主の御茶屋(休憩所)であったという記録があり、忠興が又兵衛をこの地に匿ったこともうなずけます。

長政が幕府に訴えたために、又兵衛がこの地にいた期間はそれほど長くはなかったと考えられます。 忠興の命を受けた村上八郎左衛門の案内で上方に向かった又兵衛は、その後各地を転々とし、 慶長19年1614招かれて大阪城に入城し、 大阪の陣では豊臣方として大いに活躍し、翌年、大阪夏の陣で戦死しました。

寺の山門の右手にあった又兵衛ゆかりの大石の上に、昭和61年「後藤又兵衛基次霊塔」が建てられています。

行橋市

ひとくちメモ

参道口の門柱脇には多数の水子地蔵尊像がある。 又兵衛の霊塔は、山門に向かって右手の白塀の向こう側にある。 境内には、六地蔵・三十三観音像が安置されている観音堂・空也上人の名が彫られた名号石などがみられる。

境内には「元祖大師二十五霊場土砂御判御移之地」と台座に記された法然上人像と思しきものがある。 この「元祖大師二十五霊場」は関西方面の霊場である。 何故ここにあるのかは不明。

写真

  • 本堂
    本堂 
  • 本堂の扁額(右隅に「寛政三亥八月 施主 粕屋 ■野平左エ門豊昌」、左隅に「昭和六十三年四月 塗替施主 日■ ■■ 武子」銘)
    本堂の扁額(右隅に「寛政三亥八月 施主 粕屋 ■野平左エ門豊昌」、左隅に「昭和六十三年四月 塗替施主 日■ ■■ 武子」銘) 
  • 山門
    山門 
  • 山門の扁額
    山門の扁額 
  • 山門の乳金具
    山門の乳金具 
  • 山門の金具
    山門の金具 
  • 観音堂(三十三観音安置)
    観音堂(三十三観音安置) 
  • 寺宝の後藤又兵衛が使った漆塗の膳 - 案内板より抜粋
    寺宝の後藤又兵衛が使った漆塗の膳 - 案内板より抜粋 
  • 鬼瓦
    鬼瓦 
  • 霊塔(「空也上人開創無漏山西福寺 南無阿弥陀仏」)
    霊塔(「空也上人開創無漏山西福寺 南無阿弥陀仏」) 
  • 石塔(台座に「元祖大師二十五霊場土砂御判御移之地」)
    石塔(台座に「元祖大師二十五霊場土砂御判御移之地」) 
  • 水子地蔵尊 - 門柱碑脇
    水子地蔵尊 - 門柱碑脇 
  • 六地蔵
    六地蔵 
  • 遠景 - 門前の祓川土手より撮影
    遠景 - 門前の祓川土手より撮影 
  • 門前の祓川
    門前の祓川 
  • 喚鐘
    喚鐘