稲荷山観音寺
金剛院
[金剛院棚倉稲荷神社]
神仏習合
☆☆☆
六地蔵塔
伊藤氏参拝済
歴史
伊藤氏メモ街案内のパンフによれば次のとおりである。()
立花宗茂が柳川城主に返り咲き入城した元和7年(1621)、前領地の奥州棚倉から稲荷神を遷宮し、城の守り神とした。 2代藩主立花忠茂が寛永15年(1638)、現在地に稲荷神を遷宮し稲荷山観音寺金剛院として開基。 立花家は稲荷神の加護を受けたとされ代々崇敬。現在の正式名は金剛院棚倉稲荷神社。今の建物は、一部を除き、 柳川では珍しい江戸時代中期以前のもの。
境内の案内板[1]によれば、開山は金剛院密乗(紀州熊野十二社別当修験の本源正覚印僧正即傅代2子)。 はじめは観音寺と号していた。寛永15年、密乗の子・信誉の時からは柳川領内の触頭となった。 領主・領主夫人からは「稲荷金毘羅2神並びに聚幸神」他が寄進された。
寛政年(1792)大火の為、社殿は鳥有に帰す。その後仮殿が造営され明治維新に至る。 昭和32年(1957)京町3丁目の信徒一同によって本殿・付属建物が改修。 平成5年(1993)信徒一同によって社殿の修復と鳥居の建立がなされた。
ひとくちメモ
なにも知らずに境内に入ると、よくある神社の外観である。 境内に六地蔵塔があることがわずかに「寺」であることの印として物語っている。 とはいえ、昔は神も仏も一緒に拝まれていた。この議論は無意味である。 幹が枯れ、脇枝が伸びた松の木の根本に六地蔵塔・恵比寿神が安置された石祠がみられる。
鳥居と本堂の向きからして、参道口は寺の西側の細い路地のようだ。
写真
本堂前面の扉 本堂脇の手水舎(後に松の木) 本堂に向って右手の松の木(幹は枯れて脇の枝が横に伸びている) 境内風景(前方に鳥居が見える) - 本堂を背にして撮影 参道口(寺の西側) 笠板の無い六地蔵塔 恵比寿が安置された石祠 恵比寿像 - 恵比寿が安置された石祠内 参道口前の風景(右手が参道口)
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