heritage 飛形山(ひぎょうさん) 大光寺(だいこうじ) [大光禅寺] 臨済宗妙心寺派 ★☆☆ 行基 日羅上人 伊藤氏参拝済 筑後三十三箇所観音霊場第31番札所

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〒834-0085 福岡県八女市立花町北山4786   標高:90.9m 地図 GMAP 0943-23-0710 
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歴史

伊藤氏メモ『立花町誌』に次のような記載がある。

大光寺の創建は、推古天皇の17年(609)、百済より来朝した日羅上人の開基と伝える。 本尊の十一面観音の他、諸仏も上人の作という。ところが、宝亀5年(774)の落雷で本尊もろとも焼失した。後に行基菩薩が小堂を再建し、本尊も自ら刻んで安置したという。

寛平年間(889-897)、大宰府にいた藤原高房という人は観音信仰が厚く、観音像の造立を思い立って、唐より香木を求めようとしたが、叶わぬままに亡くなった。 その子・黄門侍郎が大宰府近くの海辺で光を放つ香木を見つけ、そこに書かれた文字から父高房が求めていた香木と知って喜び、千手観音像を2体彫らせた。 うち1体は摂州嶋下郡(大阪府茨木市)に一寺を建立して安置した。そしてもう1体を大宰府に持ち帰った。

ところがその尊像は、夜毎に光を放ちながら筑後の方に飛んで行き、また戻って来るので、あるとき黄門が尊像の行き先を追っていくと、そこには中に十一面観音像を祀る一宇の草堂があったという。 黄門は喜び、新しい堂宇を建立し、十一面観音像と自分の千手観音像を一緒に祀ることにした。このような縁から、この観音堂がある山を飛形山(とびがたさん)と呼ぶようになった。

その後、再び火災があって、堂・尊像ともに焼失したが、唯一焼け残った千手のうちの一手を、後に十時氏が新しく千手観音像を造り、その胎内に納めたという。 宝永3年(1706)谷中の村人たちが誓願を起こして堂を建立し、観音様を山から現在地に移したと伝えられる。

大光寺は、10年ほど前までは、井上宗規尼という尼住職が98歳まで独りで観音堂を守っていたが高齢で山を下り、現在は無住。同じ宗派で、すぐ近くの開運寺の住職が兼務している。 本尊のご開帳は子年で、12年に一度2日間だけという。(『筑後の寺めぐり』より)()

観音まつりが8月17日頃あるようです詳細はお問い合わせください。

上記の電話番号は東光山 開運寺のものです。お問い合わせは開運寺まで。

ひとくちメモ

大光寺は地元では「八女富士」と呼ばれる飛形山の北側山裾に伽藍を構えている。

山門のある参道口から歩いてゆるやかな坂道を登ると、まず目に入るのが藤の木の巨大な株。 藤棚も巨大である。 その左手には穴観音。その右手にはミニチュア版の四国八十八ヶ所観音霊場がある。

その脇より本堂へ登る長い石段がある。 苔むした石段の両サイドは杉の林となっており、所々にはこれも苔むした石仏が鎮座している。 石段は作者が数えたところ164段であった。真冬に登ったが一汗かいた。

その石段を登り切ると本堂がある。 本堂から眺める立花町の景色もなかなか良い。 本堂の裏手には山道の入口があり、まだその先に登れそうであった。 作者は50mほど歩いたが心細くなって引き返した。

作者は未確認ではあるが、ご老人や足の不自由な方は林道を通って車で本堂に横付けできそうである。

住職が大光寺を兼務している東光山 開運寺も作者のおすすめのお寺です。 お参りの帰りにでも立ち寄られてはいかが?

伊藤氏メモ山腹に広い寺域構える寺院である。開運寺から1kmほど緩い坂道を行き、寺域に入ってからは、苔むした石段(164段程度)を上って行っても、迂回路的な少々きつい坂道を行っても、いずれも息が切れるほどです。歩いて行くには、夏場は避けた方が賢明でしょう。()

写真

  • 本堂
    本堂 
  • 本堂境内の石仏
    本堂境内の石仏 
  • 穴観音
    穴観音 
  • 穴観音内部
    穴観音内部 
  • 藤の巨木
    藤の巨木 
  • 四国八十八ヶ所観音霊場のミニチュア
    四国八十八ヶ所観音霊場のミニチュア 
  • 長い石段の入口
    長い石段の入口 
  • 苔むした石段
    苔むした石段 
  • 石段脇の石仏
    石段脇の石仏 
  • 石段脇の石仏
    石段脇の石仏 
  • 遠景 - 写真中央は本堂
    遠景 - 写真中央は本堂 

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