高教山 浄満寺 浄土真宗東本願寺派★ JYOUMANJI TEMPLE 日田街道久留米城路 吉井の町並 伊藤氏参拝済
歴史
『吉井町誌』の第2節各寺院記の内容をそのまま記載する。
高教山浄満寺 真宗大谷派(吉井町字上新町)
野上大和守の嫡男資閑は父没後本願寺9世実如に帰依、剃髪して円受、延徳2年14904月帰国し吉井村に一宇を創建した(『浮羽郡風教資料』)。 大永元年1521、了善は本願寺9世実如上人の弟子となり、堂一宇(5間に7間萱葺)を、吉井村に建てた。 天文5年1536、3代妙善(『寛文開基帳』には妙尊とある)の時堂宇を再建した(『浮羽郡誌』)。 文化12年1815、正月3日吉井町の大火に類焼。文政8年1825に再建、戦後昭和22年本堂の大修理を行ない、昭和30年、山門を建造した。当主は20世野上観成である。
梵鐘 県指定文化財
戦時中金属回収の国策にそい鐘楼より下され搬出寸前に、古文化財的価値を認識された方々の努力により、 幸に危機を脱し、現在納骨堂(昭和40年3月建造)上の鐘楼に保存されている。 梵鐘の由来は次の通りである。
寛永7年163011月22日、日田市大原山神宮寺(現大原神社の境内、神仏混淆の頃に神宮寺があった。)の為に鋳造された梵鐘である。 鐘銘は寛永13年1636に鏤刻。 銘文の選者は京都妙心寺住職の東寔である。東寔は大舟宝鑑国師、即ち妙心寺の管長に就かれた愚堂和尚である。 明治初年神仏分離で神宮寺廃止となり、梵鐘は不用となっていた。明治5年、之を譲り受け浄満寺の所有となっている。 鐘の運搬については、『浮羽郡誌』に「当時は船下しとその前後に非常な人海戦術がとられたものである。檀徒総出で筑後川河畔まで仰えに行き、 長い曳き網を握り、幼い稚児を先にたてて、三味線大鼓の鳴り物入りで、掛け声ものどかに、一寸やりに曳いて来たものといわれている」と記している。