叡興山補陀落院
光明寺
[今寺]
真言宗大覚寺派
★☆☆
行基
仁王門
薩摩街道
伊藤氏参拝済
九州八十八ヶ所百八霊場第59番札所
筑後三十三箇所観音霊場第23番札所
- 住所・電話
- 〒833-0015 福岡県筑後市津島807 標高:11m 地図 GMAP 0942-53-4824
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歴史
伊藤氏メモ開創は天平年間(729-749)。聖武天皇の勅願による行基菩薩の開基と伝えられ、筑後市内で最も古い寺院である。
当寺は、1200年以上の長い歴史の中で盛衰を繰り返した。 南北朝時代の貞和年間(1345-1350)に足利尊氏が修復した記録も残るという。 戦国末期(1600年代初頭)に筑後太守の田中吉政公が寺領を没収、その後の54年間は無住となる。 江戸初期の延宝3年(1675)に柳川藩主の立花公が諸堂を再建、快音和尚を中興開山として迎え、現在まで300年以上、19代の住職が当寺を守っている。
天保7年(1836)建立という現本堂には、秘仏の本尊千手観音像のほか、元庚申堂本尊の青面金剛像、閻魔堂の閻魔十三像などが一緒に祀られている。(『筑後の寺めぐり』より)()
本尊千手観音像は33年に一度開扉(近年のご開帳は2017年10月)の秘仏。
『新版 福岡県の歴史散歩 (新全国歴史散歩シリーズ)』の光明寺の項によれば、 境内には石造九重塔が2基あり、1基は江戸期のもの(西塔)、 もう1基(東塔)は安元元年(1175)、平重盛建立と伝えられているが、 少し後の鎌倉中期頃の作と考えられているという(福岡県文化財)。 仁王門の仁王像は鎌倉期の仏師運慶の子湛慶作と伝わる。 江戸期に二度再建されたという。
境内の案内板[1]によれば、 本堂内には木造十王坐像・ 木造葬頭河婆坐像が安置されているという。 仁王像と併せて筑後市の指定文化財となっているという。
本堂(観音堂)の裏手は薩摩街道である。
ひとくちメモ
寺のすぐ西側には耳納連山に源を発し有明海へ注ぐ矢部川が流れている。 川幅は河川敷と併せて300mはあろうか? 河川敷はグラウンドとなっている。 東側約200mの所にはJR鹿児島本線筑後船小屋駅がある。 また九州新幹線の筑後船小屋駅もその隣にある。 境内からは時折、新幹線の走る轟音が聞こえる。
仁王門は何故か矢部川の堤防に向かって建てられている。 当然その先は矢部川である。 と、いうことは参道は川の中??? 作者の勝手な想像であるが、ひょっとすると昔は川はずっと南側を流れていたのかもしれない。 境内の石碑には平成13年3月修復とある。 仁王門の仁王様は力強い線で刻まれている。 仁王像の裏側の部屋には石仏が5体安置されている。
仁王門をくぐり、境内に入ると右手に大師堂。少し進むと左右に石造九重塔。 右手の九重塔の東側には神社が鎮座している。 さらに進むと本堂である。
写真
閻魔大王像(拡大) 本堂 - 横から撮影 本堂 - 裏から撮影 仁王門の扁額 仁王門 - 矢部川堤防から撮影 矢部川河川敷 - 堤防から仁王門を背にして撮影 仁王像(阿形 - 向って右手) 仁王像(阿形 - 向って右手) 仁王像(吽形 - 向って左手) 仁王像(吽形 - 向って左手) 仁王像(吽形 - 向って左手) 仁王像(吽形 - 向って左手) 仁王門裏手内に安置されている石仏 仁王門裏手内に安置されている石仏 仁王門脇の池 不動明王像 閻魔大王像 境内風景 九重塔(安元元年製) - 東塔 九重塔(江戸期製) - 西塔 大師堂 井戸と水盤 境内にある社 社拝殿と本殿 境内風景 - 社より本堂に向かって撮影 社 本堂裏手の地蔵堂内の石仏
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①九州八十八ヶ所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~|第59番 叡興山 光明寺
②光明寺至宝展(2017-08-01〜2017-08-27)|画像