五葉山
寛元寺
[寛元禅寺]
臨済宗南禅寺派
★☆☆
行基
お乳
六地蔵塔
西牟田三ヶ寺第1番
筑後三十三箇所観音霊場第21番札所
- 住所・電話
- 〒833-0053 福岡県筑後市西牟田1791-2 標高:11.3m 地図 GMAP 0942-52-5424
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歴史
伊藤氏メモ創建は寛元元年(1243)。開基は西牟田弥二郎家綱、開山は雲山元怡禅師である。 西牟田家綱とは、鎌倉幕府から筑後に赴任してきた地頭で行西入道ともいう。 元怡禅師は、家綱の次男・家次のこと。 出家して肥前万寿寺(佐賀市大和町)で得度、長らく鎌倉の円覚寺で修行し住持まで務めた後に帰郷した。当時の高僧である。
元々この寛元寺の地には行基の開基と伝えられる休気山竹立院という寺があったので、西牟田家綱と元怡禅師の父子は諸堂を完成させ、禅刹としての結構を整えた。 寺名は、年号にちなんで寛元寺とし、西牟田家の菩提寺として建立された霊鷲寺の末寺とした。
当寺には、正平7年(1352)に南朝方の征西将軍懐良親王から祈願命令が下された文書が残る。 中世においては南北朝、戦国時代の2度にわたる戦乱と数度の火災、西牟田家の没落などで寺勢は衰えた。 しかし、慶長12年(1607)に筑後の太守田中吉政の寄進で再興され、続く藩主の有馬家も寺領を寄進して当寺を庇護した。 延宝8年(1680)に霊鷲寺が松崎藩の藩主菩提寺となって松崎(現:小郡市)に移転した後は、当寺が西牟田家の菩提寺として、また筑後屈指の禅窟として今日に至っている。
本堂の天井に画かれた「雲竜の図」は狩野永錫の作と伝えられる。また、観音堂に祀られる聖観音像は元々西牟田家の守り本尊であり、運慶の作と伝えられる。(『筑後の寺めぐり』より))()
境内の案内板とLinks① の寛元寺の項によれば、 かつては霊鷲寺(現:小郡市松崎)・正覚寺(現:久留米市寺町)と共に「西牟田三ヶ寺」として信仰を集めてきたという。
寺蔵の寛元寺文書は福岡県文化財。 観音堂の乳婦観音菩薩像は伝運慶作(元は鷲寺区にあった松源寺の本尊であったが、同寺が火災に遭い明治初期に移された)。 「母乳の出が悪い婦人が祈願をすれば通じる」として現在も厚い信仰を集めているという。 本堂裏手には西牟田家綱夫妻の墓という宝篋印塔2基と『筑紫地鑑』(1682)の著者 西以三の墓がある。
旧地名:三潴郡西牟田村大字西牟田字寛元寺。(『新考三潴郡誌』第3編第7章より)
ひとくちメモ
周辺はのどかな田園地帯。その地は久留米市と筑後市の境である。 「西牟田」「北牟田」「田中」など水田をあらわす地名が残る地帯である。
山門脇には地蔵堂、本堂前には観音堂がある。 観音堂の脇には六地蔵塔の頭部(2基分)が無造作に置いてある。 西牟田家綱夫妻の墓と西以三の墓は境内の北西の端にある。(西牟田小学校と接する場所) 周辺では、所々古い家並みも見ることができる。
写真
鐘楼 山門の扁額 地蔵堂 - 山門脇 地蔵像 - 地蔵堂内 六地蔵塔の頭部 - 観音堂の軒下 青面金剛 - 山門脇 参道口 西牟田家綱夫妻の墓 西以三(「元禄十一戊寅年」の文字が読み取れる) 門前の風景 門前の風景(寛元寺のバス停) 梵鐘
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