heritage 東向山 隆守院(りゅうしゅいん) 曹洞宗 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済

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〒811-4211 福岡県遠賀郡岡垣町吉木西1-14-14   標高:11.8m 地図 GMAP 093-282-0735 
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歴史

境内の案内板の内容をそのまま記す。

東向山隆守院

岡城主麻生河内守隆守大友宗麟臣瓜生貞延に攻められ、 天文13年(1544)9月27日内浦海蔵寺で自刃する。

瓜生左近貞延は後宗像家の家臣となり吉田姓に改めるが、 麻生隆守の霊が吉田家をたたり、吉田家が衰退するため 岡城の下に守臺院を建て麻生氏を供養した。

承応2年(1653)龍昌寺8世金峰元錫(きんぽげんし)和尚を開山に 請じ隆守の霊を弔った。元錫和尚は万治2年(1659)に守臺院を隆守院と改名した。

隣接の日照山勝業寺が明治時代に廃寺となったので、勝業寺の本尊、大日如来坐像 などが隆守院に移された。

町指定文化財

・木造胎蔵界大日如来坐像(室町時代)

・岡城跡(室町時代)

平成13年3月 岡垣町教育委員会

参考:『筑前國続風土記』

ひとくちメモ

隆守院は吉木小学校の西にひっそりと伽藍を構えている。 その裏山が岡城跡である。

伊藤氏メモ本堂とそれに続きの納骨堂を数年ほど前に改修。 大日堂と名付けられた納骨堂には、旧勝業寺の本尊であった木造胎蔵界大日如来坐像(寄木造り)が祀られている。 本堂裏には、黒田24騎の一人、原種吉の子孫の墓が並んでいる。その中には、「日本戦車の父」と呼ばれている原乙未生(はらとみお)元陸軍中将の墓碑もある。現第21世。()

岡城跡

  • 隆守の墓か?(未確認)
    隆守の墓か?(未確認) 
  • 本丸 - 木の向こうには町が見渡せる
    本丸 - 木の向こうには町が見渡せる 
  • 二の丸 - 石仏を多数の小さい石仏が円形に取り囲んでいる
    二の丸 - 石仏を多数の小さい石仏が円形に取り囲んでいる 
  • 本丸に通じる山道。多数の石仏が鎮座している
    本丸に通じる山道。多数の石仏が鎮座している 

本堂裏手に、小高い山があり、そこに岡城跡がある。案内板の内容をそのまま記す。

岡垣町指定文化財「岡城」のこと

ここは岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめる岡城跡です。

岡城は、まだ戦国時代たけなわの文明年間(1469-1487)の終わり頃に、 この地の領主だった麻生家延(いえのぶ)によって築城されたものです。

麻生氏は下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)宇都宮氏の出で、 鎌倉幕府発足の頃、源氏勢力の一翼で九州にきた鎌倉武士の一人です。

麻生氏はその後、北条氏の御家人から室町時代には筑前国守護職大内氏に属して、 遠賀川の河口一体を支配する大きな勢力になりました。 文明10年(1478)麻生家の跡取りを巡る内紛で、大内氏が大軍で攻め寄せる 「花尾城[1]合戦」が起こりました。 この結果、それまでに総領として麻生氏を束ねていた麻生家延が破れ、 その和睦の条件で遠賀川西の岡ノ庄(おかのしょう)28ヶ村が家延に与えられ、 家延はこの吉木の地を選んで城を築きました。

これが「岡城」で、別名「腰山城(こしやまじょう)」ともいわれました。

家延から三代目の麻生隆守のとき、岡城は豊前の大友勢に侵攻され(永禄5年(1562)以降) 落城、隆守は自刃して吉木麻生氏は絶えました。 城跡は、麻生隆守の菩提を弔って「隆守院」の境内域になっていて、地元の人びとによって 今日まで手厚く保護されてきました。

この城跡は、東西に汐入川(しおいりがわ)を配した小丘陵で、最も高い本丸跡は 40メートルしかなく、南東面は急斜面で守られ、北東面に二の丸・三の丸を 梯郭式(ていかくしき)に配置した典型的な山城です。

(中略)

石垣は用いられず、岩質の山肌はそのまま城構えに利用されています。

城の表口は本丸の北西山麓で、城主の屋敷跡を示す「門田(かどた)」地名が 現在も残っています。

平成8年10月10日 岡城築城五百年記念事業実行委員会


『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡 上

○隆守院 禪宗

恩賀山と號す。吉木村にあり。岡の城のふもとにして、麻生隆守が為に立てし寺なる故、 隆守院と號す。隆守の墓位牌あり。

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脚注