佛海山
法輪寺
[法輪禅寺]
臨済宗大徳寺派
★☆☆
宝篋印塔
伊藤氏参拝済
島郷四国八十八ヶ所霊場第9番札所
- 住所・電話
- 〒807-0141 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿22-17 標高:4.9m 地図 GMAP 093-223-1351 ホームページ
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歴史
『筑前国続風土記拾遺』によれば、元は真言宗。 それを蔵海珍和尚(応永元年(1394)没)が中興して臨済宗と改める。
法輪寺の鐘。この鐘は「法輪寺、文明6年(1473)」の銘がある。 その鐘はなぜか穴生 款冬山 弘善寺にあったものを1800年代前半に地元の人が買い戻し法輪寺に寄付したという。
文政6年(1823)に本堂修理の為西の谷を掘ったところ壊れた多数の五輪塔と石仏が発見され、その下には徳治3年(1308)銘の銅製経筒が発見されたが、 祟を恐れて埋め戻されたという。 境内の案内板によれば、経筒は昭和2年(1927)に再び同じ場所より掘り出されて現在に至っているという。
ひとくちメモ
作者は国道495線側の駐車場側の入口から法輪寺に入って行ったが、参道は法輪寺の東南側の民家の間を通っている。 昔ながらの道幅と思われるかなり長い参道である。
山門脇には天保9年(1838)銘の宝篋印塔、本堂脇には多数の石塔などを観ることができる。 境内から眺める山鹿の街並、その先の城山の景色はなかなか良い。
本堂に向かって左手には石段があり、そこを登ると「梅林公園」となっており、多数の石仏(普賢菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩など)を観ることができる。 裏山の頂上には貴船神社が鎮座している。
伊藤氏メモ山門石段の麓部分に立つ寺名石碑に刻み込まれた黒々とした文字が印象的。臨済宗に転じてから600年ほど経つが、記録がなくご住職の現世代数は不詳との由。()
写真
宝篋印塔(天保9年の銘) 全景 - 駐車場から撮影 参道 参道 本堂に向かって左手の多数の石塔 裏山の梅林公園への石段 普賢菩薩像 - 裏山の梅林公園内 文殊菩薩像 - 裏山の梅林公園内 地蔵菩薩像 - 裏山の梅林公園内 多数の石仏 - 裏山の梅林公園内
『筑前国続風土記拾遺』
巻之35 遠賀郡 貞 山鹿村の項に下記の記載がある。
◯法輪寺
佛海山と号す。禅宗崇福寺に属す。此寺古刹也といへとも開基の年歴不詳。初ハ真言宗也しと云。 中興開山を藏海珍和尚と云フ。大應國師の法嗣江湛和尚の弟子なり。 嘗て鎌倉の建長圓覚浄妙万壽寺に住持たり。 應永元(3年の誤り?)年_US(丙)(子)(1394)8月に寂す。是より禪刹となれり。昔ハ大寺なりしか乱後漸く衰微せり。
古鐘有。銘曰「大日本國西海道筑之前州山鹿莊葦屋津金嶋山法輪◯桂昌。専抽二懇誠一。 鑄二供鐘一口一。而以捨二入寺一。寺伏願。(中略)旹文明6年(申)(午)(1473)歳孟夏仲澣日 願主比丘昌桂住事比丘法秋 大工大江氏清」 此鐘中世より同郡穴生村弘善寺に在しを、 近年此浦の長秋枝勘次郎と云者買取て再ひ此寺へ寄附せり。 破處ありて撞く事能ハす。
文政6年(1823)3月本堂の家上を補修せんとて寺内の西方の谷間に柴の茂りたる地を掘穿ちて土を取りに下より五輪塔の崩れたるを掘出せり。 凡此数大小4、50許有。其内塔の趺石に文字彫たる2箇。1ハ應徳元年(1084)未年5月沙弥妙覺。1ハ尼本三と有。年月ハ上ニ同じ。 (應徳ハ白河院年号文政6年迠740年に當る。) 又石佛16躰高壱尺7、8寸許、或ハ1尺許、其側小石を以て埋たり。經石成へし。 其下より銅造の経筒出たり。高5寸斗徑2寸欵有。 「妙法蓮華經全部8巻奉為関東御曹司千壽御前相当1百日忌景。 御為滅罪生善頓證菩提一日頓写供養如レ右徳治3年(1308)正月22日道師遍照金剛皇鑒、母儀菩薩戒尼遍照清浄覺敬白。」と有。 関東御曹司とあれハ将軍家の御息なるへし。 千壽御前と称するも鎌倉将軍家先代よりの幼名なり。 (頼家の御息にも千壽御前有。又実朝公も幼名を千壽御前と有り。されとも此二人ハ年代古けれハ其後にも同名の人ありしなるへし。) 然れとも誰人なるや未レ考。 徳治3年ハ後二条院の年号にて今年花園院御即位有延慶と改元す。文政6年迠516年也。 經筒ハ本の如く瘞めり。 此寺に此塔ある事いかなる故にや不詳。
此寺の末庵に善慶庵とて高辻と云處にあり。 又山林2000坪寄給へる有司びの券文あり。
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