heritage 放光山 法応寺(ほうおうじ) [法應寺] 浄土真宗本願寺派 ☆☆☆

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〒811-4203 福岡県遠賀郡岡垣町内浦257   標高:12.7m 地図 GMAP 093-282-1564 
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歴史

境内の案内板の内容をほぼ原文のまま掲載する。

(浄土真宗本願寺派)放光山 法応寺(当山野由来と宗家始祖のご廟所)

当山は寛治3年(1089)叡山の僧了空法師によって天台の法が伝えられ、 ここに庵室を結び妙光山法光寺といった。 それより天台の法は12葉・西道法師の寂滅(明応元年(1492))まで続くがその後は暫く無住となっている。

数年後、藤原経教の三男教阿上人は本願寺八世御門主蓮如上人に帰依して浄土真宗の奥義をきわめられ、 九州順錫の折に当寺に投宿された。 その夜本尊の夢告に「末代に至るまで法應持教育せよ」とのことで、寺号を法応寺と改め上人がこの地に初めて如来大悲の法を伝え、 浄土真宗 放光山 法応寺の第一世となられた。 当山創建は永正3年(1506)、その後、度重なる災禍で本堂・庫裏を消失したが、 度毎に再建し阿弥陀如来の第18願の御法義は、灯台の門信徒に至まで連綿と継承され天台時代の本尊薬師如来(春日明神作)を 大字手野に移し今日に至っている。

その昔(約800年前)平家一門の公達は西国に難を避ける折柄、 当地をしばしば行き来した。 壽永年間(壽永2年(1183))安徳天皇は平宗盛とともに山鹿入城の折当寺に休まれた事も有り、 当山の前方の地名を「神の前」と言うのはその名残りである。

又、平清盛の孫で平知盛の長子、平知宗(平盛幹)は本尊の夢告に従い安住の地を求めて対馬に渡り、氏を宗に変え宗家の初祖となった。

知宗は「吾れ他界の後は必ず遺骸を当寺に葬れ」との遺言を残し建長9年(1249)9月19日に没す。 その後、遺臣梅本坊・白石平左衛門等、遺命を奉じて墳墓を建立した。

法光寺殿(平等院殿)三位宗盛幹大禅定門のご廟所は本堂裏側にある。 尚、当山から南方垂水峠を越える約3kmの地、釣山に平知盛の庶長子平信盛並びに月姫の廟所があって、当山とは深い因縁のところである。

法応寺古文書記

伊藤氏メモ北九州市八幡西区熊西の法應山放光寺は、昭和期に当寺から分かれて創建されたものである。()

参考:『筑前國續風土記付録』

ひとくちメモ

法応寺は県道495号線の垂水峠を下った所に伽藍を構えている。本堂は近年改築されたようでぴかぴかである。 上の寺伝にもあるが、法応寺は古い歴史を持っている寺院である。

平信盛・月絵姫の廟所

平信盛・月絵姫の廟所
平信盛・月絵姫の廟所 

廟所は法応寺からR495で垂水峠を越えて2kmほど行った所の道路脇(左手)にある。道路脇に親切な標識があるのですぐわかると思う。 廟所の案内板の内容を記載する。

宗像市 文化財第1号

この墓碑は平信盛(清盛の孫,父は中納言知盛)月絵姫(大納言光盛の息女)御夫妻のもので 人皇第81代安徳天皇が壽永4年3月平氏一門の壇の浦敗戦と共に二位の尼時子 (清盛の妻)に懐かれて入水崩御せられ平家一門もこの戦に殆ど戦死や自殺して海底に沈み滅亡したが 信盛は他日再挙を期して深山幽谷に身をかくし源氏の目を避けんとして英彦山から 宗像一の宮(辺津宮)孔大寺権現の社にと供人85騎を従えて落ちのびた。

その後たまたま鶴山(釣山)に金鉱を見出しこれの採掘に従事するとともに井上五郎太夫と改名し安住の地と定めた。その後更に大賀と改姓信盛より8代目、大賀惣右ヱ門の世には極めて繁栄にて 千余戸を数える鉱山町となり禁裏より永野の姓を名のるよう指示があり今日に及んでいる。

この墓所ははじめ石塔山にあったが、洪水のため埋没したので、明治21年11月永野家一統が協議して、コウモリ塚に移し、墓石も永年の風雨に、表面の刻字も摩滅したので新しくその節刻名し天蓋石と台石のみ八百余年の寂影をとどめている。

昭和51年1月20日 宗像市教育委員会

筑前國續風土記付録』巻之28 遠賀郡 内浦村

法応寺(真宗 佛堂3間半4間)

放光山と號す。万行寺に属せり。 開基を宗伴といふ。 寛永11年12月寺號木仏を授けらる。

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