施無畏山
観音寺
[丸山観音・めだか寺・圓通堂]
日蓮宗
★★☆
伊藤氏参拝済
- 住所・電話
- 〒822-0014 福岡県直方市丸山町2-47 標高:13.6m 地図 GMAP 0949-25-0219 ホームページ
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歴史
伊藤氏メモ直方御館山城主・黒田伊勢守長清公は本藩福岡藩の分家として直方城へ入城。 観世音菩薩の尊像を城内に安置し、日頃から信仰が厚かった。 後年直方から福岡本藩へ引き移りの際に町民一同が尊像をそのまま安置くださるよう請願したのに対し、長清公は町民の至情を嘉せられ、祈願所として祭祀した。 元禄5年(1692)祈願所の拝殿を丸山の地に移し、祭典費とし田畑を添えた。以上の旨が『直方風土記』に録されている。これが当寺の始まりである。
なお、当寺の古記録・重要書類は、天保13年(1842)堂宇炎上の際、焼失している。 また、元禄以降、明治初年の間には中興者もあるようだが、調査未達で判明していない。
斯かる由緒ある堂宇も、明治初期の頃には久しく無住の状態で、堂宇は荒れ、田畑の如きは殆ど不分明となり、境内地は一時官地に没収される状況になるも、初代中興開山日如上人が明治18年(1885)に入堂し、有志総代諸氏と協力し、明治33年(1900)堂宇新築の浄願を達成した。現第6世。
本尊の観世音菩薩像は、九大教授の鑑定や由緒沿革により、古い観音像であることは間違いない。 平安時代前期、又は藤原時代後期の作であるならば、1000年から1200年ほど経ていることになる。この本尊は、御開帳が、古くから60年に一度である。(昭和59年11月18日御開帳記念冊子『施無畏山観音寺由緒沿革』などより)()
当寺中興の日如上人が明治18年(1885)に入堂した当時、「圓通堂」と呼ばれた荒れた御堂内に観音菩薩と共に残っていたものを当ページの下部に掲載します。
当寺は丸山保育園を併設しているようだ。
ひとくちメモ
観音寺では千数百匹の色とりどりのメダカが泳いでいる。2006年頃、檀家から数十匹を譲り受けたのをきっかけに増え続け、訪れる人を楽しませている。メダカがあしらわれた御朱印も人気。(「西日本新聞」(2020-10-27)より )
門前には平成筑豊鉄道伊田線が走っている。なだらかなスロープを登って境内に入る、庫裏・鬼子母神堂を右手に見てさらに登れば本堂域となる。 本堂域は木々に囲まれ、しっとりとした味わいである。 手入れも行き届いている。
本堂・鬼子母神堂の前にはたくさんのメダカの泳ぐ大きな甕が置かれている。 参拝を終え、下山しようとしていたら先代の住職(御年85歳、矍鑠としておられる)に呼び止められ、本堂・鬼子母神堂内を案内して頂いた。(2022-08-31記) また、当寺の歴史についてもお話頂いた。感謝感謝。
寺内を案内していただく間にも、子供を含む多くの参拝客がお参りしていた。 WELCOME度満点のお寺である。
写真
遠景(観音寺は画像中央) - 南側の遠賀川の堤防(国道200号線)より撮影 本堂の山号・寺号額 本堂内の荘厳 鬼子母神堂 - 本堂に向って右手(棟続き) 白龍大権現 - 鬼子母神堂内 鬼子母神堂の祭壇 鬼子母神堂の祭壇(拡大) 境内風景 - 本堂を背にして撮影 手水舎 手水鉢(手水鉢には左手の鯉の口から水が注がれている) 参道口(両脇に門柱。その脇に題目塔) 看板 - 参道口 多くのメダカの水槽 - 庫裏前 「大乗妙典一字一□塔」- 本堂前 布袋尊(台座に「ようきたね。ありがとう」) 丸山保育園 門前の平成筑豊鉄道伊田線 寺の南側の平成筑豊鉄道伊田線の鉄橋 門前の道標
圓通堂の遺物
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以下は現在の先代住職からのお話による。(2022-08-28取材)
当寺中興の日如上人が明治18年(1885)に入堂した当時、「圓通堂」と呼ばれていた。 観音菩薩が祀られた、荒れた草庵で近在の住人によって守られていた。
その庵にあったのは掲示している画像の扁額「圓通堂」・額「六歌仙」・扁額「能救世間苦」である。
扁額「能救世間苦」だけは近年修復されている。銘が残っていたが、修復時に無くなった。 塗料で上塗りされたと思われる。「能救世間苦」とは「よく世間の苦を救いたまう」といった意味である。
秘仏である観世音菩薩像は本堂の祭壇中央の日蓮聖人像の後の厨子に祀られている。 従来は60年に1度の御開帳となっていたが、今後は各種の行事の時にも開帳することを計画中。
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