妙見山
増福院
[山田地蔵尊・増福禅院]
曹洞宗
★☆☆
桜
名鐘
宗像四国東部霊場第65番
- 住所・電話
- 〒811-3411 福岡県宗像市山田700 標高:57.3m 地図 GMAP 0940-32-5513 ホームページ
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歴史
境内の案内板の内容をそのまま記す。
(前略)
由来
宗像大宮司家第78代雄郷[1]は天文20年(1551)9月 主君大内義隆が長州において陶晴賢に討たれ戦死された時、 宗像には正室菊姫があったが 側室[2]の子氏貞を立てんとする者達のために翌年3月23日の夜、 山田の里において菊姫と母君4人の侍女と共に惨殺された[3]。 戦国乱世とは言え婦女子6人を一時に殺すと言うことは史上にこの例を見ない悲惨亊である。
その後6女の怨霊の呪いによりてかこの暗殺に加わった者すべて惨死する等怪異が続いたので6女の霊を慰める為に当寺を建立し六地蔵を刻み本尊として安置したので漸く異変が終わったと伝えられている。
以来星霜移ること450年信仰遠近をとわず信者の多く特に 安産、子育て、厄除、進学、家内安全、諸病平癒、交通安全、商売繁盛を願う人の参詣が絶えない。
曹洞宗(禅)妙見山 増福院
伊藤氏メモ惨劇のあった場所は、4人の侍女の墓より北側の外園と呼ばれる「山田夫人故址」の碑が立っている所だが、今は畑地になっている。 また、同院には、惨殺された菊姫遺愛の手鏡、貝合わせ一揃いが遺され、「おもひやれ訪ふ人もなき山里にかけひの水の心ぼそさは」の和歌を記した扇が伝わっている。(『九州戦国の女たち』より)()
伊藤氏メモ本堂の天井絵は嘉永4年(1851)に描かれた珍しいもの。(『福岡歴史百景 』より)()
増福院は白山の山裾に伽藍を構えている。その白山には宗像家の城があったという。 境内にある案内板の内容をここに記す。
参考:『筑前國続風土記』
ひとくちメモ
本堂裏手には急峻な杉林が聳えている。 本堂に向かって左手の石段を登ると菊姫廟がある。 墓石は長年の風雨の為か、やせ細っているものもある。
梵鐘は1514年の中国(宋)製と言われる。下部が末広がりでスカートのフリルのような 形状が特徴的である。
白山城跡には時間がなく登れなかったが次回は登ってみたい。
写真
白山城
白山城の歴史
- 1182~1184(鎌倉時代)
- 第36代宗像大宮司氏家築城、約380年間宗像家の本城としての役割をはたす。
城跡には本丸、曲輪、堅堀跡が現存している。 特に山の井と称し、岩盤を刳り貫いた井戸が残っており、 これは全国にも例を見ない貴重な遺物である。- 1335(室町時代)
- 足利尊氏、関東で天皇に叛き反乱をおこす。
- 1336(2月)
- 京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びて来た尊氏を白山城に迎え入れる。 (宗像軍記)
- 1336(3月)
- 宗像大宮司は尊氏主従に軍備を整えさせ援護し香椎の多々良浜で、熊本の 菊池軍を奇跡的に破り勢いを盛り返した尊氏が室町幕府を開く。
- 1551(9月12日)(安土桃山時代)
- 黒川鍋寿丸(宗像氏貞)白山城に入る。在城12年間(最後の宗像大宮司)
- 1554(3月23日)
- 白山城下の山田の御殿に於いて宗像家の御家騒動による大惨事が演じられる。
- 1560
- 氏貞薦ヶ岳を再築し宗像家の本城とする。
増福院は宗像大宮司氏貞の時代、御家騒動の犠牲になられた人々の怨霊を鎮めんが為に、 六地蔵を刻み田地を寄進して霊を祀ってあるのが山田地蔵様(増福院)で宗像家とは 特に縁の深いお寺である。又お寺の裏山には尊氏が座禅をしたと言われる岩場がある。
宗像市史より 白山城址を守る会
『筑前國続風土記』
巻之17 宗像郡 下に下記の記載がある。 女人のたたりが怖い話である。増福院-ふるさと紀行にわかりやすく解説されています。 これもごらんください。
『筑前名所図会』 | 『筑前名所図会』 |
『筑前名所図会』 | ![]() |
○山田村(増福院)
増福院に昔より毘沙門堂有。 又近世宗像大宮司正氏の後室、並其女氏、男の妻の墓有。 母子の墓一也。又その侍女4人の墓も有。 皆大宮司の臣の為に殺さる。 後室の怨念たたり有りに依りて、地蔵菩薩とあがめ、像を作り、寺を立て安置す。
其因縁を尋るに、後室の居宅は山田村増福院の下に在。 則大宮司の別院なり。 是より先宗像大宮司氏佐大内家に属し、周防山口に出勤せして居住す。 黒川氏と称す。 氏佐の子刑部少輔正氏も、黒川に3年住せし時、陶尾張守晴賢人道全姜が姪女をめとりて2人の子を生。 兄は鍋壽丸と號す。其次は女子也。正氏本妻は宗像山田に在。女子一人をうめり。名を菊姫と云。 正氏は家族氏續が嫡子權頭氏光を養子聟として、 菊姫をめあはせ、家をゆづり隠居し、山田に住し、名を隆尚と改む。 天文16年(1547)48歳にて病死す。上八承福寺に葬る。 氏光は名を改て氏男と號す。氏男も又大内市に随ひ、防州も行勤けるが、天文20年(1551)9月、 陶全姜主君大内義隆に叛逆す。 義隆其乱をさけて、長州深川大寧寺に落行自殺せられ。後にて氏男敵を防けるが叶はず。 義隆の跡を慕ひ行けるを、敵追かければ氷の上と云所にて戦死す。生年23とかや。 其後全姜のはからひにて、正氏黒川にてまうけし陶が姪の産し子、 鍋壽丸を四郎氏貞と號し正氏が家督とし、 大宮司にせん迚、天文20年(1551)9月12日、宗像へ下し、白山の城に入ける。 時に歳7歳。 然るに宗像家臣共同心せずしていはく、「氏貞は正氏の子と云う共、本妻の子に非ず。 氏男の弟千代松殿有。是を氏男の養子とし、家督とすべし。 然共当年3歳幼稚なれば、先菊姫に一族の内然るべき人を聟に取て、社職をつがすべし。 氏貞を下しまいらせらるる事、一応家人へも其示は有べきに、さはなくて押て白山へ入城せしむる事、陶殿のひがごと也。」 是氏貞の家人、寺内治部丞が我意をふるまふ故成りと評定し、氏貞を立んとせず。 又千代松が父前大宮司氏續も、我子千代松を立んことを悦んで其議に同ず。 又陶が命を恐れて氏貞を立んと云者も多くして、家中ニにわかれてあらそふ。 陶全姜是を聞て寺内治部丞に云付、先氏續及千代松を殺さしむ。(其事は鞍手郡山口村圓通院の所に詳に記す。) 其後又陶が下知にて、正氏が後室並其息女の菊姫を殺し、 氏貞を彌立べしとて、宗像の臣、石松又兵衛尚秀に云付、 野中勘解由、嶺玄蕃を遣し、後室並菊姫を殺さしむ。 (一説に、氏貞の母に、山田の後室を讒せしもの有りしを信じて、我が母子に害あらん事を恐れて、石松に云付て、野中嶺をして殺さしむと云。)
天文21年(1552)3月23日の夜、勘解由、玄蕃、山田村後室の宅に行き、先菊姫の局に忍び入。 折節菊姫は今夜の月を拝まんとて、行水し髪を洗ひて、後端近く出て居たりしを切りころす。 18歳とぞ聞えし。 二人は夫より後室の居られし奥の間に走り行、後室を殺さんとせしが、さすが其気色に恐れ、暫しためろふ二人の者を白眼て、 「汝等科なき主人を殺す事、此恨汝等の子孫迄盡すまじ。我は女なれ共、汝等が手に懸るまじ」とて、守り刀をぬきて自害せり。 其たけき有様、見る人恐ろしく、目をおどろかせり。 後室に仕へし小少将、三日月、小夜と云し3人の女房も、なきかなしみ、二人に取りつきこぶしを以て打しを、三人共に皆さし殺す。 花の尾と云局の女房、後室の刀を取て自害す。斯て母子の死骸を一に集め、宅の後の山の岩の下に同穴に埋む。 其時死せし女房4人をも、墓の側に埋む。
其翌年、天文22年(1553)3月18日、嶺玄蕃、鞍手郡蒲生田観音に詣けるが帰るさに、 女二人忽出来るを見れば、かの後室と花の尾の局なりしが、即時に消て見えず。 玄蕃足ふるひ、手わななきけるが、やうやうにして帰り、苦しげばる息をつき、胸いたや、刀にて差通さるるが如しと呼はりて、頓て死せり。 是後室祟をなせる初め也。 其後玄蕃の妻子兄弟数人、同時に皆病を受て、玄蕃の如く成しが、同付き23日迄に皆死失たり。 野中勘解由是を聞て、大きに恐れ、祈祷をしけるが、或夜後室と花の局、夢に見えて、其怒りを述て、勘解由を責る事甚し。 夢覚めて、大汗かひて肢体なえて、翌日病におかされ死す。 其後7日の内頓病にて7人死す。 此後諸人恐怖甚し。氏貞及其母恐れをなして、様々に祈り祭りて、たたりをまぬがれん事をこふ。 永禄2年(1559)の春、氏貞の妹13歳、俄に狂気起こりて、「我は正氏の妻成り」と云て、 目をいからし気色おそろしくて、其母を責わたりて、我と我子を殺したることをうらみ、母の咽にくひ付けるを、 傍に在し者共、あまた立寄て引直す。 其他後室にあだをなしたる家人共を責いかかる。 今日恨を報ぜんといかり責む。 はたして其日多く頓死す。氏貞の妹狂乱止ずして死す。 (一説に、氏貞の妹名は菊と云。狂病いえて、元亀2年、立花鑑連の室と成、立花の城に嫁す。)氏貞の母のんどの疵いえしが、後に病を受て死せり。 後室を殺せし評議に加りし家人共、追々に皆頓病を受て死す。
氏貞恐れて、正氏の後室の霊を、田島の村中に社を立、氏八幡と號して祭る。 又山田村増福院に後室母子の為、祭田を寄附して香花を備ふ。 彼あだをなせし者の子孫迄、怨霊のたたりやむ事なし。 天正14年(1586)、氏貞死去の後、氏貞の後室、其息女に祟あらん事を恐れ、正氏の後室並息女及侍女4人を、 地蔵菩薩とあがめ、山田村の増福院に右6名の為に、6対の地蔵を安置し、又祭田を寄附す。 小早川秀秋の時、増福院寄附の田地を皆没収せらる。 篤信昔年或人の求に依て彼の祭田の記をかきて與ふ。 (一説、正氏の後室及菊姫を殺せしは、石松又兵衛尚秀なりと云。是宗像社人及里民伝称する所 及宗像記同追考の説也。去れ共石松氏が遠孫の家に伝ふる所、及自餘の説は石松尚秀には非ず。 彼後室母子を殺せしは、野中嶺両人なりと云。石松又兵衛は永禄3年、名を但馬と改称す。氏貞死去の後、 剃髪して可久と云。其遠孫今猶多し。石松弑逆を行はば、其身及其子孫にたたり有べきに、さなきを以て證とすべしといふ。 石松に尚季とす。)
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