蘿岳山龍泉院
正法寺
浄土宗
★☆☆
伊藤氏参拝済
宗像四国東部霊場第1番
- 住所・電話
- 〒811-4145 福岡県宗像市陵厳寺2丁目30-3 標高:57.3m 地図 GMAP 0940-32-3022
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歴史
境内の木製・墨書の案内板の内容をそのまま記す。ルビ・段落は作者が挿入した。
由緒
建久6年(1195、約790年前)肥後国飽田郡(熊本県飽託郡)に生まれた僧俊芿により蘿ヶ岳山の麓 (宗像町城山町三郎丸藤ヶ谷)に寺を創立して正法寺と称す。 その当時は真言宗であった。
以来350年間を経て天文年間(1532-1555、 約450年前)接誉上人檀徒特信者の熱烈な皈依と援助に依り陵厳寺の現在地に寺を移して鎮西派浄土宗の念仏道場となす。 時に宗像氏貞の時代に当る。
仍て接誉上人を正法寺中興第1世とす。
宝暦3年(1753、240年前)火災消失し、のちに檀信徒の喜捨を得て第11世撮誉上人に再建(年月不詳)約210年以前と案ず。
爾来第14世継誉上人代(約140年前)と明治40年第21世性誉代に大々的な補修を加えて保存していたが、老朽著しく遂に檀徒と相計り協讃を得て昭和41年起工して 鉄筋コンクリート建地下1階地上1階約132坪の本堂を改築して地下室を廟屋とし地上を本堂とす。
付 記 大正13年9月第21世性誉上人代に庫裏約80坪を檀徒の協力により再建す。 その後昭和62年9月木造平屋の庫裏を建立す。 昭和24年梵鐘再鋳・施主檀徒中
天正15年(1587、約400年前)豊臣秀吉公正法寺に一泊の覚が伝わっている。 その節公に献じた芦屋茶釜(約1斗1升入)南無阿弥陀仏の銘入りて現存して寺宝となる。 その他寺宝なし。
寛文13年(1673、約310年前)福岡市少林寺第2世成誉上人 宗像町三郎丸高樹山に引退して高樹院殿黒田忠之公より公の持仏観世音菩薩を拝受して此処に安置す。 是高樹山七日庵と称す。
明治初年堂宇老朽のため解体して本尊観世音菩薩は正法寺本堂に安置す。 依って高樹院殿黒田忠之公の位牌も安置されている。
(註)沿革に関する記録資料は明治21年頃に編述された縁起に抜粋に依る。
蘿岳山龍泉院 正法寺住職 誌
『拾遺』によれば、家康も正法寺に一泊したような記事がある。
伊藤氏メモ本堂は昭和41年(1966)に改築竣工。現第24世。()
ひとくちメモ
正法寺は城山の西側の山裾に伽藍を構えている。その東南側には妙湛寺も伽藍を構えている。 敷地面積はかなり広く、駐車場も広い。
地名の陵厳寺は「りょうげんじ」と読む。
写真
『筑前國続風土記拾遺』巻之下38 宗像郡 下 陵厳寺の項
正法寺
蘿岳山龍泉院と号す。 浄土宗鎮西派智恩院の末寺なり、 建久年中(1190-1198)釋俊芿當寺を當郡三郎丸に開基あり。 はしめは真言宗なりしといふ。
元亨釈書に俊芿ハ19にして太宰府観世音寺にて受具戒。 建暦元年(1211)入宋し還りて博多に着く。 本邦にかへり筒嶽に正法寺を創するよし見えたり。 (寺説に釈書の正法寺ハ即當寺の事にして、肥後に非すといふ。此説いかかあらんおほつかなし)
天正年中(1573-1593)に浄土宗の接誉といふ僧再興して、寺を此村に移すといふ。 此寺に昔神祖[1]より賜ひし浄土三部経有しよし。今ハなしと云。 (按に天正15年太閤筑紫征伐の時、御かへりに蘿ヶ岳城に入給ふ。 此時楞厳寺村の正法寺といへる浄土寺に一宿し給へるよし本編に見えたり。 また朝鮮陣の時には、神祖名護屋の御陣もありしかは、其御往来に一宿させ給へることも有て、 御恩施有しにや。 遠賀郡茶屋原にて浄土僧信誉に神祖の短刀を賜ひし類なるへし[2]。)
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