heritage 野坂薬師堂(のさかやくしどう) [野坂堂ヶ鼻薬師堂] 仏教礼拝所 ☆☆☆ 宗像四国東部霊場第5番 宗像四国東部霊場第16番 宗像四国東部霊場第43番 宗像四国東部霊場第75番 宗像四国東部霊場第87番 宗像四国東部霊場第88番 宗像四国東部霊場第43番番外 宗像四国東部霊場第49番番外

住所・電話
〒811-3423 福岡県宗像市野坂2356   標高:33m 地図 GMAP
検索
同地区同宗派(106)  ( 4km以内 )  関連ページ(1) MAP  周辺のスポット(6)  Links(2)

歴史

御堂内の薬師堂建設寄進者名簿には昭和55年8月の銘がある。

祭壇中央の十一面観音像の後ろに薬師堂の縁起と思われる額が掛けられており、その一部を下に引用する。(ふりがなは作者が挿入した)

縁起文

抑々(そもそも)當堂に安置せる十一面尊は今を去る壱百参拾年の昔中山の里にありし中山寺の廃寺により埋葬されたる霊魂鎮護の為中山の里の有志集いて建立信仰せるものなり。 途中一度火災に遭遇せるも里の努力により十一面尊は喪失はまぬがれぬ。

その後昭和戰後に至り野坂郷の各里の鎮護として祀りおりし佛像を當薬師堂に合祀す。 その数十八尊像なりしと言う。

當薬師堂も過ぐる昭和3年不慮の火災に遭い尊像とともに灰塵に歸す。

野坂郷の有志は全郷より寄附を募りこの薬師堂を建設せるも、十一面尊の建立ならず今日に至れり。

(中略)

因縁を語らうにより十一面尊の再建を発願し今日こゝに野坂郷の除病延命除災与福の為に奉献す。 こゝに壱筆縁起を記すものなり。

維持 昭和五拾八年六月吉日 施主 大和とし子 敬白

祭壇中央の十一面観音像の足元に6枚の宗像四国東部霊場の札が立てかけられている。 Linksのページに記載されている当薬師堂の札所の一覧との対応を下表に記す。 なお、表中の⑤第四十九番番外釈迦堂(本尊釈迦如来)はこのあたりにあったものが移転されてきたものという。 本薬師堂の札所の表示は、Links①Links② のページに合わせる事とする(8札所)。

Links①Links②現地の札の状況
(札には全て「宗像四国東部霊場」が記されているが省略)
①第五番地蔵堂(本尊将軍地蔵菩薩)「本尊 勝軍地蔵菩薩 野坂堂ヶ鼻 第五番」
②第十六番観音堂(本尊千手観音菩薩)「本尊 千手観世音菩薩 野坂堂ヶ鼻 第拾六番」
札の上部が破損
③第四十三番観音堂(本尊千手観音菩薩)「本尊 千手観世音菩薩 野坂堂ヶ鼻 第四拾参番」
④第四十三番番外観音堂(本尊十一面観世音菩薩)「本尊 十一面観世音菩薩 野坂堂ヶ鼻 第四拾参番」
「番外」の表示が無い
⑤第四十九番番外釈迦堂(本尊釈迦如来)「本尊 釈迦如来 野坂 第番外四拾九番」
札の上部が破損
⑥第七十五番薬師堂(本尊薬師如来)御堂の扁額に記載されている。
⑦第八十七番観音堂(本尊聖観世音菩薩)「本尊 聖観世音菩薩 野坂堂ヶ鼻 第八十七番」
⑧第八十八番薬師堂(本尊薬師如来)<打ち止め>**未確認**

ひとくちメモ

御堂内の祭壇には、中央に十一面観音像・向かって左手に薬師如来像(絵像)・右手には弘法大師像が安置されている。 御堂の両側面には、明王系の画が書かれた掛軸がさげられている。 境内には、十三仏・修行大師・釈迦如来(?)の他多数の石塔がみられる。

近年の再開発・高齢化などでお守りのできなくなったこの地区の尊像・石塔などがここに集められているようである。 寂しさを感じる。

御堂の前には「赤子石」がある。

写真

  • 十一面観音像 - 祭壇中央
    十一面観音像 - 祭壇中央 
  • 薬師如来像(絵像) - 祭壇に向かって左手
    薬師如来像(絵像) - 祭壇に向かって左手 
  • 弘法大師像 - 祭壇に向かって右手
    弘法大師像 - 祭壇に向かって右手 
  • 御堂内の掛け軸
    御堂内の掛け軸 
  • 御堂内の掛け軸
    御堂内の掛け軸 
  • 修行大師 - 参道口の脇
    修行大師 - 参道口の脇 
  • 十三仏
    十三仏 
  • 釈迦如来(?)像 - 参道口の脇
    釈迦如来(?)像 - 参道口の脇 
  • 参道口(左手に弘法大師、右手に釈迦如来(?)が立っている)
    参道口(左手に弘法大師、右手に釈迦如来(?)が立っている) 
  • 石塔
    石塔 
  • 庚申塔群
    庚申塔群 
  • 薬師堂脇の田園風景
    薬師堂脇の田園風景 
  • 薬師堂 - 横から撮影
    薬師堂 - 横から撮影 
  • 藤棚 - 薬師堂に向かって左手
    藤棚 - 薬師堂に向かって左手 
  • 十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札
    十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札 
  • 十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札
    十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札 
  • 十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札
    十一面観音像の足元に立てかけられた霊場の札 

赤児石(あかごいし)

赤児石
赤児石 

巾約2m、奥行き約1m、高さ約0.6m。 大岩である。 傍らの案内板の内容を下に記す。

赤児石に由来

戦国時代後期、宗像大宮司家の御家人の夫人が山田[1]の里を逃れてようやく朝町の峠まで落ちのびて来たが、 あまり疲労が激しかったので傍の大石に幼児を下ろして一息ついたのも束の間、後を追って来た屈強の武士の凶刃にたおれはかない最後をとげた。

その大石を鮮血に染めていた赤児の足型が長い年月の間にだんだん色あせたがなかなか消えないので里人は赤児石と呼んでいる。

(宗像伝説風土記より) 宗像市


関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)

周辺のスポット(4km以内)

周辺の寺院・仏教施設・他のページは当ページの上部の検索の項の「4km以内」のボタンをご利用下さい。

脚注