仏旗 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 不詳  KANZEON-BOSATSU

  • 観音堂
    観音堂 
  • 2体の観音像
    2体の観音像 
住所
〒811-3511 福岡県宗像市地島223 標高:8.9m MAP GMAP  
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歴史

筑前國続風土記拾遺』巻之38 宗像郡 下 地島の項によれば 泊港の前の海は潮流が激しく舟の転覆事故が絶えることがなく、その為黒田如水が 慶長年中1596-1615にこの波止場を築くに至った。 この観音堂はその時に建立されたものという。 仏像は2体あったと記録されている。

同書によれば、波止維持の為、「寄港する舟は、自国他国は問わず、1艘に付き一日10個の石を寄進する事。 これに違反した舟は永久に寄港禁止。」という趣旨の命令書を発行したという。 この命令書に署名した武将たちは黒田藩を起こすに貢献した 井上周防栗山備後小河内蔵允など黒田24騎に名を連ねるメンバーである。 当時はすごい権威のある命令書ではなかったかと思われる。

時は流れ、その命令書に従い石を持ってくる舟はいなくなる。 波止は荒れてきた為、文政5年1822に修理した記録があるという。

また同書によれば享保5年1720にこの港の沖に清国の遊女舟が数隻訪れ悪さをし、 それをやっつけた話も出ている。 大陸に近い島ならではの話である。

ひとくちメモ

観音堂は、泊漁港の西の外れの民家の端にひっそりと立っている。 その場所は殿様波止の付け根部分である。 内部には観音像が2体安置されきちっと清掃されている。

観音堂脇の磯には竜神様の祠がぽつんと岩の上にある。 竜神様の祠の手前には石碑が2つ並んで立っている。 殿様波止にある道標ではこの付近に、 波止を構築する際に人柱となった二人の女性の供養塔があるようになっている。 どうやらこの石碑が供養塔ではなかろうか?(未確認)

写真

  • 慈島図(左手波止の根本に観音堂が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵
    慈島図(左手波止の根本に観音堂が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵 
  • 観音堂内
    観音堂内 
  • 観音堂の扁額
    観音堂の扁額 
  • 観音堂脇の石塔(安政2年の銘)
    観音堂脇の石塔(安政2年の銘) 
  • 観音堂脇の石仏群
    観音堂脇の石仏群 
  • 案内板
    案内板 
  • 石塔-観音堂向かって左手海岸
    石塔-観音堂向かって左手海岸 
  • 竜神様の祠-観音堂向かって左手海岸
    竜神様の祠-観音堂向かって左手海岸 
  • 観音堂脇の鳥居
    観音堂脇の鳥居 
  • 殿様波止のネコちゃん
    殿様波止のネコちゃん 
  • 観音堂付近のネコちゃん
    観音堂付近のネコちゃん 
  • 観音堂付近のネコちゃん
    観音堂付近のネコちゃん 
  • 観音堂付近のネコちゃん
    観音堂付近のネコちゃん 

殿様波止の写真

  • 殿様波止
    殿様波止 
  • 殿様波止の付け根部分
    殿様波止の付け根部分 
  • 舟繋ぎ石か? - 殿様波止
    舟繋ぎ石か? - 殿様波止 
  • 殿様波止より港内を望む
    殿様波止より港内を望む 
  • 殿様波止
    殿様波止 


『筑前國続風土記拾遺』巻之38 宗像郡 下 地島の項

観音堂付波戸

波戸場に在。 佛躰2軀あり。慶長年中1596-1615如水公此所に波戸を築給へり。 其時建立し給へるといふ。波戸長150間≒272m横18間≒33m余、此時老職の連署の翰を賜へり。 今に浦長か家に在。(ここ)にしるす。

「當浦観音堂上下舩如水立置条。 舩1艘ニ付而1日ニ1人持之石[1]10宛程上置可寄進候。 御手舩[2]迠も如此被仰付候間。 御國中廻舩ハ不申他國舟二而候共可申付候。 當座舟か丶りに1艘ニ付而1人持之石2宛上可申。 此上にて無同心舩ハ後年迠も其舩を當津へ寄候儀可停止候由。 被仰出候間。 以此旨堅固可申付候也。

卯月28日
小河内蔵允(判)
桐山丹波守(判)
野村大学守(判)
黒田美作守(判)
栗山備後守(判)
井上周防守(判)
慈嶋 庄屋
弁指

此嶋の迫門海中に奇石ありて、 陸地ハ鐘崎江口の間の磯より泊の人家の下まで續きて、 (あたか)も河中の堰手の如し。 潮の満干には此瀬を波の打越さま、渓流の激流に似たり。 これに依て行舟転覆の患絶ることなし。 されとも常に怒潮發りて巌を砕き岸を崩する故に、此所に波戸を築くこといにしへよりなかりしを、 如水公これをうれひ給ひて、 多くの人力を盡し給ひ、 慶長年中に遂に波戸成就しける。

此時宰臣より前に見えたる連署をあたえて、長く盤根を固くせられしか、 其後泊舩より石を上ること久しく絶たりしかは、 文政5年1822の秋、郡吏の請によりて復旧例に従ふへきよし命せらる。 元和4年16183月此波戸を補修し給ひし時は、 高橋伊豆此ことを司とれり。 即ち伊豆か書る波戸記今にあり。

波戸の南に灯籠堂有。往来の舟人をして暗夜に帰向する所を知らしめん為なり。

享保5年17206月に 清國の南京の姦商の舟数艘此嶋の沖にて吾姦民を誘ひて沖賣せんとす。 國君[3]是を制せんとて福岡より人数を遣はして、 近辺の海辺を守らしめ、 初ハ空砲をならして、防御の勢を見せしかは、 沖に遠く避て舩影見えす立退しか、 後には只驚かしにかくするぞと心得て、 是を(あなど)り昼ハ帆影の見えぬ所に遠く退きて、 夜な夜な磯近く舩を寄せて姦謀せんとす。 かくの如くなる事久し。 か丶りしかは具に江府に言上有て、 同年6月22日台命(たいめい)[4]により士卒を發し、 舩より大砲火矢を放かけて、 南京舩を討崩し清人男女数十人を誅せり。 其舟滓風に従ひ此嶋の内菰浦泊の民家の所といふ所に流着しを悉クこ丶にて焼捨ける。 此時の番頭ハ加藤直右衛門成昌 監察喜多村弥次兵衛保通 舩手頭松本主殿直勝なり。