仏旗 安延山 承福寺(じょうふくじ) [承福禅寺] 臨済宗大徳寺派★★  JYOUFUKUJI ZEN TEMPLE 筑前国中三十三観音霊場第20番札所 宗像四国東部霊場第58番 キンモクセイ 坐禅 写経 除夜の鐘を撞ける 如意輪観世音菩薩玄海さつき温泉

  • 本堂
    本堂 
  • 織幡神社図(上部に織幡神社、左下隅に泉福寺、右下隅に承福寺が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵
    織幡神社図(上部に織幡神社、左下隅に泉福寺、右下隅に承福寺が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵 
住所・電話
〒811-3513 福岡県宗像市上八1373 標高:58.5m MAP GMAP 0940-62-1833 ホームページ
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歴史

上のホームページにも詳しく記載されているが、境内の案内板の内容をそのまま記す。

承福寺文書

承福寺は、室町時代、宗像大宮司氏国[1]の家臣、占部越前守安延1398-1478[2]の開基と伝えられています。宗像大宮司庇護のもと繁栄していましたが、80代氏貞の没後、宗像大宮司家は断絶し[3]、衰微していました。

江戸時代の初期、筑前に入城した黒田氏はこれまで荒廃した寺院を立て直すべく、寺領の安堵と、田畑を寄付し、承福寺を擁護しました。

本寺院には、この内容を書付けた古文書が残されており、黒田如水から綱政までの5代にわたり寺の復興にむけて尽力したことが伺える資料となっています。

承福寺より西側に少しゆるい坂を下った所に宗像氏貞の墓所がある。

参考:『筑前國続風土記』『筑前の寺めぐり』

ひとくちメモ

承福寺は湯川山の西の麓に伽藍を構えている。2011-10-01にはじめてお参りしたが、ちょうど本堂前のキンモクセイが満開でとても良い香りが漂っていた。また、境内から眺める玄界灘も絶景である。承福寺裏手には湯川山への登山口がある。

承福寺のホームページは頻繁に更新されているようで、和尚様の法話など満載である。

ちなみに、承福寺がある地名「上八」は「こうじょう」と読む。どうやっても普通は読めない。 益軒は上の『筑前國続風土記』の中で「上入」の書き間違いではないかと書いているがこれも「こうじょう」とは読めない。


写真

  • キンモクセイの大株
    キンモクセイの大株 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 観音堂(宗像四国東部霊場第58番)
    観音堂(宗像四国東部霊場第58番) 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 境内から眺めた玄界灘
    境内から眺めた玄界灘 
  • 山門
    山門 
  • 山門脇に鎮座される石仏様
    山門脇に鎮座される石仏様 
  • 全景
    全景 
  • 湯川山登山口
    湯川山登山口 
  • 山門より境内を望む
    山門より境内を望む 
  • R495より湯川山を望む。承福寺はその麓にある。
    R495より湯川山を望む。承福寺はその麓にある。 

宗像氏貞の墓所

  • 墓石
    墓石 
  • 墓所入り口 - この坂を登ったところに墓石がある。
    墓所入り口 - この坂を登ったところに墓石がある。 

墓所に入り口にある案内板の一部を引用する。

史跡 宗像氏貞の墓地及び石塔

第80代宗像大宮司宗像氏貞は戦国乱世の時宗像一円を よく統括した、宗像氏最後の英傑です。 1578(天正6)年に焼失していた宗像大社本殿を再建しています。 しかし、1586(天正14)年に宗像大社境内復興半ばで病に倒れ (つた)ヶ嶽城にて42才の生涯を終えています。 法名は「即心院殿一以鼎恕大居士」と号し門前乙尾の丘陵上に 埋葬されたと伝えられています。

取材で墓所の前を通った時に地元のご婦人と思われる方が、墓所の前で手をあわせて通りすぎていた。 地元の方々の信仰の深さを感じた。


『筑前國続風土記』巻之17 ○上八(かうしやう)村 承福寺上八の訓いぶかし。若は上入と書きしを、あやまりて八の字かくにや。の項

山號安延山、開山月潭、或は號月菴。

此寺に大宮司の墓五六有。 氏貞をも此寺に葬る。 今も墓有。 土民は此墓所を御塔と云。 氏貞の影像並位牌有。 氏貞を即心院と號す。 叉此寺に児殿と土民の称する墓有。 氏貞の子を葬りしと云。

此寺に如水公より田地を寄附し給ふ。 今にしかり。 叉如水公より此寺の後の山を寄附し給ふ証文有。 故に其後代々の国主も、証文をはたへ給ふ。

此寺佳境也。 此村民彦三郎富人也。 延寶年中1673-1681の凶年には、財を出して貧民を救ふ。 国主も感賞し給ふ。

禅僧芳長老が父の宅も此所に在。 対馬に行て朝鮮と書簡の贈答せし名()[4]也。

『筑前の寺めぐり』より

伊藤氏メモ承福寺は、室町時代後期の応安6年1373、宗像社僧安延大徳が月庵宗光禅師を勧請開山として創建。月庵宗光禅師とは崇福寺の大応国師から3世の法孫である。

その後は、戦乱で一時衰退するが、文明2年1470、宗像家の家老占部安延が、主家及び若くして亡くなった子息盛延・弘尚の追善のために再興した。承福寺とこの地方の支配者宗像家との交流は深かった。承福寺には大宮司宗像正氏公の位牌とその子氏貞公の位牌と肖像画が今も大切に保存され、祀られている。

天文16年1547に没した宗像正氏公は鐘崎の浦に葬られ、その25回忌にあたる元亀2年1571に、寺は宗像家から寄進を受けている。また、宗像家最後の大宮司であった氏貞公が没したときは、その死を隠すために家臣が密かに遺体を承福寺に運び、寺の近くに埋葬したという話は有名である。今も氏貞公の墓所は承福寺に近い乙尾にあり、命日には寺と大社の合同で墓前祭が行われている。

慶長5年1600、黒田氏の筑前入府後は崇敬と外護を受け、寺領の寄進もあった。

承福寺の歴代住職の中には、外交に携わって活躍した人もいる。7世の湖心和尚は大内義隆公に請われて遣明正使として一行を率いて渡海している。続く8世の玄蘇和尚は対馬藩から依頼されて対朝鮮外交に尽力し、さらに徳川家康の内意を受けて渡鮮し、秀吉により断絶していた日朝外交の修復を図るなどの活躍をした。

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