青龍山千手院
清水寺
[長谷観音]
真言宗九州教団
★★☆
行基
火渡り
清水寺の竹灯籠
鞍手郡中三十三観音霊場第25番
筑前国中三十三観音霊場第25番札所
鞍手郡西山新四国八十八ケ所霊場第88番
- 住所・電話
- 〒822-0146 福岡県宮若市黒丸1558-1 標高:199m 地図 GMAP 0949-54-0074
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歴史
清水寺のパンフレットの内容をそのまま引用する。
清水寺略史
清水寺は寺伝によると、今から1260年前の天平勝宝2年(750)、仏教を厚く信仰する聖武天皇の勅願所として、 行基が深山の清水を選んで寺を建立し、その御本尊として、自ら千手観音を彫刻したと伝えられている。
清水寺はこの地の山岳仏教の寺として栄えた。 門前には(仲坊・宝積坊・向坊・実相坊・前鬼坊・理性坊・奥坊・田井坊・奥園坊・密乗坊・道達坊・検校坊)、 そのほか(大殿坊・ムケン坊)など多くの僧坊が建ち並んだ。 室町・戦国時代にかけて、山口の守護大名大内氏、また宗像大宮司家など多くの武将の庇護があり、 寺田、山林多く、大変栄えた。
天正10年(1582)10月、当市内の小金原合戦の際、兵火にあい、一山残らず消失し、多くの修行僧は四散した。 慶長元年(1596)ごろに至り、座主坊跡に僅かに仏堂一宇、僧舎一区が建てられた。その後寺勢衰え、 一時期豊前国田川郡上野村興国寺の兼務寺になった時期があった。 元禄時代、住職栄纂のとき、京都仁和寺の末寺になった。承応2年(1653)享保2年(1717)黒田藩の援助で観音堂が 再建された。近世以降、鞍手郡中、触中、村中など、また一家中での加持・祈祷の依頼が多く、近郷在住の人々の信仰が厚かった。 平成17年に紫燈護摩を復活した。
ひとくちメモ
清水寺は宮若市の西山の東南に伽藍を構えている。県道92号線からかなりの急坂を登ってお参りしなければならない。 清水寺からの麓の景色は絶景である。トヨタ自動車の宮田工場、その先に北九州市八幡西区の皿倉山も望むことができる。
毎年12月30・31日には、幻想的な光の世界が広がる竹灯籠イベントが実施される。
イベント情報(今日から1年間)
○主催者などに事前に確認の上、参加下さい○
日時 | 内容 | 備考 | 状態 |
---|---|---|---|
2023-12-30(土)〜2023-12-31(日) | 竹灯籠イベント | 境内で竹灯籠でライトアップされます。 30日 夕刻〜21:00 31日 夕刻〜00:00 夕暮れ時からロウソクに点火します。着火をお手伝いいただける方は、各自チャッカマン等をお持ちください。 | 確定 |
2024-04-16(火) | 柴燈護摩 | 時刻は不詳。 | 未確定 |
写真
扁額 鐘楼 五重塔 大師堂 山門越の観音堂 山門 観音堂 観音堂 - 部分拡大(かなりの年代を感じる) 境内風景 - 後が大師堂 参道 - かなりの急坂である 清水寺から東側を撮影(写真中央は八幡の皿倉山)
『九州の寺社シリーズ20~筑前若宮清水寺~』より
伊藤氏メモ清水寺は、承応2年(1653)に観音堂を再建した際の棟札によると、天平勝宝2年(750)に行基が建立したという。 この寺伝を確かめ得る棟札以前の資料はないが、若宮町(現在は宮若市)一帯は、『延喜5年(905)観世音寺資財帳』にみえる観世音寺の封戸50烟が置かれた鞍手郡金成郷の故地である。金生封は他の観世音寺領よりも多くの運上米を負担しており、古代以来、生産性の高い地域であった。したがって、清水寺のような寺院を生み出す素地もあったであろう。
清水寺本堂に安置される十一面観音菩薩坐像は、体内の墨書から嘉禎4年(1238)に造られたことが判明する。 観音堂にある秘仏の本尊千手観音像は調査されていないが、堂内では平安時代の天部像が確認されており、清水寺の創建が古代に遡る可能性を示している。
中世の清水寺については史料が少ないが、『黒丸区記録』によると、永徳2年(1382)に真言宗権律師栄朝(栄都とも)が住職であったといい、永正年中(1504-1521)から承応2年(1653)までの住職は田川郡興国寺と掛け持ちで維持されたという。 『筑前国続風土記』などによると、天正9年(1581)の宗像氏貞と戸次道雪による小金原の合戦の後、立花(戸次)勢が撤退するときに、清水に馳せ上り、観音堂で一夜を明かした。『筑陽記』や『福岡県地理全誌』などから、その際に清水寺も兵火に遭ったとみられ、本尊は烟中を脱したが、仏閣僧院および経巻什物を焼失し、12坊の僧坊も失われ、仏堂一宇と僧舎一区のみになったという。
『黒丸区記録』によると、慶長4年(1599)、院主朞存のときに鰐口が鋳造され、さらに、棟札から承応2年(1653)、永寿の代に観音堂が再建されたことが分かる。昭和17年(1942)に太平洋戦争に供出された鐘の銘が『黒丸区記録』に収められており、銘文は天和2年(1682)に法師快儀が起草したもので、中興栄算法師が願堂を修造し、坊舎を新営したとする。清水寺西側には歴代住職の墓が7基現存するが、法印栄算の墓が最も古く、墓碑銘によると、元禄10年(1697)に夭した。
『宝永5年(1708)御供料田記』によると、暹偵のときに観世音菩薩日御供料として、鞍手郡若宮・吉川両荘首陀の富族が沃田一町を寄附し、宮田町芹田を含む若宮町に当たる地域の民衆36名が総計25俵を納入することを定めた。以上より、17世紀後半から18世紀初頭に清水寺復興の画期があったことが分かるとともに、復興期の清水寺を支えた人々が住んでいた領域を推定できる。暹偵は墓碑銘によると、第3世住職で、正徳4年(1714)に入寂した。
近代になり、明治5年(1872)には檀徒中により本堂が再建された。また、明治37年(1904)、16世住職覚幢の代に鐘楼北側に建てられた紀念銘石に、護摩講社員が鐘楼を新築したとある。また、鐘楼と紀念銘石の間には石造りの鐘が置かれている。これは昭和17年(1942)に太平洋戦争に供出された鐘の紀念として奉納されたものである。なお、現在鐘楼にかかる鐘は、理学博士清水一郎が設計し、昭和29年(1954)、17世住職開演の代に再鋳され、檀徒中が寄進したものである。()
『筑前の寺めぐり』より
伊藤氏メモ山門正面の観音堂に本尊として祀られる千手観音様は行基菩薩の作と伝えられるが、ご住職もまだ拝見したことがないと言われるほどの秘仏で、春の大祭で年一回だけ開帳される前立ちの姿から僅かにそのお姿を想像するしかない。風格ある観音堂は享保2年(1717)の建立。高床式で擬宝珠柱付きの高欄が巡り、小振りながら歴史と存在感を感じさせ、屋根の反りがすっきりと美しいお堂である。
昭和39年に建て替えられた本堂に安置される十一面観音坐像は、鎌倉時代の作、また一緒に祀られる不動明王や弘法大師の像は江戸時代の作という。山門横の開放的なお堂は通夜堂で、信者が参籠して夜通し祈願する所で、お篭り堂ともいう。
清水寺は、天正年間の戦乱で本尊を除く多くの仏像や寺宝、堂宇を焼失した。しかし、承応2年(1653)に近隣の協力によって再建され、また享保2年(1717)にも改修されている。現在は、本堂と観音堂だけになったが、本堂に安置されている木造十一面観世音菩薩は胎内に嘉禎4年(1238)の墨記がある。
清水寺は周囲の景色が素晴らしい。この景色は昔から有名であったらしく、風土記や地理誌、郡誌などにも佳境地と書かれている。この寺の手水場横の太い孟宗竹の樋からとうとうと流れ出る水が佳い。近くにある新幹線トンネルの中で湧き出す水を寺まで引いたそうであるが、味はまろやかで清冽、本当においしい水である。()
『筑前國続風土記』巻之13 ○清水寺 真言宗
『筑前名所図会』 | ![]() |
青龍山と號す。 黒丸村にあり。仁和寺の末寺なり。住僧あり。 本尊先手観音なり。 行基開基の地にして、本尊も行基の作と云傳へり。 むかしは僧坊十二区ありしと云。 其名今に残れり。(仲坊、奥坊、寶積坊、田井坊、 向坊、理性坊、寶相坊、前鬼坊、奥園坊、道達坊、 検校坊) 此寺、若宮河内のいと高き所にあり。 若宮、吉川の諸村眼下に見え渡り、佳景也。 此山の上に、鷹を網にて取し所あり。
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